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第2回 山下裕二①

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岡本太郎をリスペクトする著名人の方々に、
太郎への思いを思う存分語っていただきます。

第二回目は、
美術史家で明治学院大学教授の山下裕二さんです。

太郎さんが亡くなって、ただならぬ胸騒ぎがしたんです。

ぼくと岡本太郎の出会いですけど、
もちろん小学生の頃から顔と名前は知っていました。

というのも、ぼくが小学校6年のときが「大阪万博」ですから。

父親につれていってもらったんです。

ぼくは当時、広島に住んでいて、
県外に出たことはほとんどなかったんですけど、
初めて大阪という大都市に連れて行ってもらいました。

当時まだ新幹線は開通してなかったので、
飛行機で行きましたね。

広島空港から伊丹空港まで、
生まれて初めて飛行機に乗ったんですけど、
小さなプロペラ飛行機でした。

大阪に親戚のおじさんがいたから、
その家に泊めてもらって、一週間くらいいたのかな?

毎日、万博会場に行きました。

おじさんの家は東淀川区っていう、
新大阪の駅からわりと近いところにあって。

万博会場に行くのに、
そこから地下鉄御堂筋線に乗って、
千里丘陵まで行って、そこでモノレールに乗り換える。

ま、今と同じ行き方なんですけど、
子供のぼくは地下鉄にも生まれて初めて乗るわけです。

でもね、御堂筋線って地下じゃないんですよね。
「なんで地下鉄なのに地下じゃないんだよ!」
って子供心に思った記憶がありますね(笑)。

それで万博会場でいきなり《太陽の塔》に対面して。

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夏休み。
本当に暑いときでした。

パビリオン入るのに何時間も並んで。
「アメリカ館」なんて3時間くらい並びましたね。

アポロの宇宙船が展示してあって、
「月の石」もあったりで、一番人気だったんです。

でも《月の石》ってただの石なんですよ。

うやうやしく展示してあって、
多くの人が取り巻いてましたけど、
なんだか腑に落ちないという(笑)。

《太陽の塔》はそのとき内部も見ているんです。

とにかくすごい人の多さでしたね。

それにやっぱり、
《太陽の塔》の、あの大きさに圧倒されました。

「怪獣みたいだ!」って。

当時の少年はみんなそう思うんですけど。

《太陽の塔》
それがぼくにとっての岡本太郎との、
最初の出会いだったんですけど、

将来、こんなに岡本太郎について本を書いたりとか、
いろんな仕事をするようになるなんて、
その当時は思ってもみませんでした。

それでしばらくぼくの中での、
岡本太郎は休眠状態だったんですけど、
その後に第二の出会いみたいなのがあって。

それは大学に入ってから、
何気なしに岡本太郎の本を買ったんです。

『原色の呪文(文藝春秋)』っていう、
太郎さんの文章を編集し直したような本でした。

当時、ぼくは世田谷の豪徳寺の、
ボロアパートに住んでいたんですけど、

その豪徳寺の駅の近くに古本屋があって。
そこで何気なく買ったんです。

ぼくは美術史学科に進学していたので、
なんとなく岡本太郎っていう人が文章を書いてるのは、
知っていたんですけど読んだことはなかったんです。

読んで思ったことは、
「すごく過激なことを言っているな」と。

改めて驚きましたね。

その頃は太郎さんは晩年で、
テレビに出ては“いじられる”っていう、
そんな役回りをさせられてた感じがあって

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僕が一番イヤだなって思ったのは、
夕方の片岡鶴太郎が司会をしているテレビに、
岡本太郎が出てきて、

子供の絵を審査するようなコーナーがあって、
そこで司会者がすごくイヤな“いじり方”をしていて。

それで義憤を感じたりしていましたね(笑)。

でも太郎さんは、
「子供の絵のためだったらどう扱われようと、
自ら進んで出るようにしていた」って。
敏子さんも言ってましたね。

そんなこんなで、
岡本太郎は世間では、
ただの変なおじさんのように思われていましたが、
文章を読んでみるとぜんぜんそうではない。

もの凄く真摯な文章で、
それで改めて注目したんです。

でもぼくが大学生の頃ですから、
70年代の終わりくらいだと思いますが、
ほとんど太郎さんの本は絶版されていたんです。

だからその一冊だけで。

他の本を買って読むってことも、
しばらくはしなかったんです。

でもだんだん気になりつつありましたね。

そんな中で、
三度目に岡本太郎を意識したのは、
大学院生の頃だったと思います。

ぼくの恩師の辻惟雄先生っていう方が、

*辻惟雄(つじのぶお)
日本の美術史学者。専門は日本美術史。
東京大学名誉教授、多摩美術大学名誉教授。
若冲ブームの立役者として有名。

岩波書店から、
『日本美術の見方 日本美術の流れ7(岩波書店)』
っていう本を出されたんです。

それでその中の「縄文」の項に、

「自分は大学に入ったばかりの頃に、
岡本太郎が『みずえ(美術出版社)』に発表した、
『縄文土器論』を読んでいたく感激した」

っていう記述があって。

それでぼくの中で結びついていなかった、
美術史のアカデミズムと岡本太郎の存在っていうのが、
はじめてそこでリンクしたんです。

そんなこともあって、
それからポツポツと岡本太郎が書いたものを、
さらに読むことになっていったんです。

それでも、

「自分が岡本太郎について書く機会なんてないだろう」

とは思っていましたね。

そして、1996年の1月7日。

太郎さんが亡くなるわけです。

ぼくはそのときの、
テレビの臨時ニュースを、
とてもよく覚えているんです。

テロップが流れたんですけど、

「芸術家・岡本太郎さんが亡くなりました。享年84歳」

太郎さんが亡くなって、
ただならぬ胸騒ぎがしたんです。

それからさらにその数日後に、
すごい早さで建築家の磯崎新さんが、
太郎の追悼文を朝日新聞に書いたんです。

それは切り取って保存して、
今でも持っているんですけど、

その追悼文が素晴らしい文章で。

それを読んだときに、
さらに胸騒ぎが増幅された感があったんです。

それから改めて、
太郎のことを調べるようになって、

さらに数ヶ月後に、
『芸術新潮 さよなら、岡本太郎(新潮社)』が出たんです。

これがまた素晴らしい内容で。

とくに太郎さんが撮った写真が、
たくさん載せられていて。

日本中を走り回って撮った写真。

それを見て、感動しましたね。

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日本の風土とか土俗的なものとの、
太郎との関わりっていうものを強く意識していきました。

96年というと、
ぼく自身もメディアの仕事が、
かなり増えてきてた時期だったので、

付き合いのある編集者に、

「岡本太郎のことがすごく気になっている」

なんて話をしていたら、

平凡社の『別冊太陽』が、
『岡本家の人びと(平凡社)』っていう特集を組んで、

「関心があるようなので、
太郎さんと日本の古美術との関わりについて、
書いてくれませんか?」

っていう依頼が来たんです。

それが初めてぼくが太郎について書いた文章なんです。

『過激な「伝統」のアジテーター』
っていうタイトルで。

そこで太郎の縄文発見とか、
あとは太郎は尾形光琳のことをよく書いていたので、
そのこととか、

そういうことをかなり長い文章で書いたんです。

そうしたら、
あとは芋ずる式ですね(笑)。

それを読んだ他の編集者から、
太郎に関する執筆の依頼が続々と来るようになったんです。

ただ、その時点でもまだ、
ぼくは岡本敏子と会ってはいなかったんです。


次回はいよいよ、
敏子との出会いについてお聞きします!

山下裕二②

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山下裕二
1958年広島県生まれ。
東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院修了。
日本美術史研究者、明治学院大学教授、
日本美術応援団団長、山種美術館顧問。
室町時代の水墨画の研究を起点に、
縄文から現代美術まで、
日本美術史全般にわたる幅広い研究を手がける。
WEBサイト「山下裕二研究室」
https://art.flagshop.jp/

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