前回に続き、
美術史家で明治学院大学教授の山下裕二さんに、
岡本太郎への熱い思いを語っていただきます!
〈前回までは〉
山下裕二①「太郎さんが亡くなって、ただならぬ胸騒ぎがしたんです。」
今回は岡本敏子さんとの出逢いについて。
もう敏子に首根っこ捕まえられたというか、
手のひらの上で転がされたというか、
敏子と会ったのは、
それからしばらくたって、
99年くらいだったと思うけど、
NHKが岡本太郎の番組を作ることになったんです。
「日曜美術館」で。
「岡本太郎~伝統をつかみ取れ」っていうタイトルでしたね。
その番組に、
ぼくがメインで出演することになって、
「きっと《太陽の塔》の造形には、
縄文の土偶のイメージが反映しているんじゃないか」
とか、
《太陽の塔》の前で、
土偶のレプリカを持たされて(笑)、
そういうことを話したんです。
その《太陽の塔》の真下で、
岡本敏子と初めて会ったんです。
敏子さんとしてはね、
「美術史の大学の先生が、
太郎さんについて語るなんて大丈夫かしら?」
って訝しがっていたらしいんです。
それでロケの様子を見に来たんですね(笑)。
本当は一緒に銀閣の庭の取材をするんで、
次の日に会うはずだったんです。
まさか《太陽の塔》の下に来ているとは思いませんでした。
だけど会って話したら、
すぐに意気投合して、
食事というか、
お酒を飲みに行きました。
いま思い返しても、
そのときは強烈でしたね。
京都のすごく高級なところに行ったんですけど、
板前さんに、
「これじゃダメよ!もっとこうしなさいよ!」
とか言ってて(笑)。
それでお酒もぐいぐい飲むんです。
たしか、
深夜の1時半くらいまで飲みました。
それでね、
翌朝6時から、
銀閣のロケだったんです。
でも、
敏子はぜんぜん平気で。
「あら、おはよう!」
なんて爽やかに現れましたね。
「わたくしはね、どんなに飲んでも、
朝になるとパチッと目が覚めるのよ!」
なんて得意げに言ってました(笑)。
それで一般公開の前に、
ぼくと敏子がロケをして、
銀閣の庭は、
50年近く前に、
敏子と太郎が一緒に行ってる場所なんです。
そこで、
太郎さんが撮った写真と、
同じアングルでまた写真を撮ったりして。
それからですね。
もう敏子に首根っこ捕まえられたというか、
手のひらの上で転がされたというか、
「この子、使えるわ!」
という感じだったんでしょうね。
その頃、
いちばん目を付けられたのは、
ぼくと、椹木野衣さんでしたね。
*椹木野衣
美術評論家、多摩美術大学美術学部教授。
主な著書に『シミュレーショニズム』など。
近年は岡本太郎の再評価にも力を注ぐ。
敏子は、
「これから私が、
どんどん太郎を復活させるんだ」と。
太郎が亡くなってから、
少しはメディアで、
取り上げられるようにはなっていたものの、
まだ道半ばという感じでしたから。
「まだちっちゃな花火が上がったくらいなのよ。
これから4尺玉を打ち上げるんだから」
って口癖のように言ってましたね。
こうして敏子と出会ってからは、
ことあるごとに敏子といろいろ話しましたね。
いったい何回くらい、
対談やインタビューをしたか(笑)。
数え切れないほどです。
—
太郎の巡り合わせで、
敏子と出会った山下さん。
次回は敏子の酒豪ぶり(?)について、
さらに語っていただきます!
山下裕二③
山下裕二
1958年広島県生まれ。
東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院修了。
日本美術史研究者、明治学院大学教授、
日本美術応援団団長、山種美術館顧問。
室町時代の水墨画の研究を起点に、
縄文から現代美術まで、
日本美術史全般にわたる幅広い研究を手がける。
WEBサイト「山下裕二研究室」
https://art.flagshop.jp/
第2回 山下裕二②
:: May 23, 2015
