美術史家で明治学院大学教授の山下裕二さんに、
岡本太郎への熱い思いを語っていただいています。
〈前回までは〉
山下裕二①「太郎さんが亡くなって、ただならぬ胸騒ぎがしたんです」
山下裕二②「もう敏子に首根っこ捕まえられたというか」
山下裕二③「印象的だったのは、飲めば飲むほど、敏子は太郎さんになっていくんです」
まずは敏子が亡くなった日のことから…
なんだか敏子が死んだ気がしませんでしたね。
敏子が2005年に亡くなったときのことも、
よく覚えています。
《明日の神話》がメキシコで見つかって、
それを何としても日本に持ってきたいと、
平野暁臣館長が、
返還の正式な契約をするために、
メキシコに飛んだんです。
それですべてが完了して、
平野館長が日本に帰ってくる、
その日に敏子は亡くなったんです。
だから、
平野館長は成田で、
敏子が亡くなったことを知るわけです。
ぼくは、
その一週間後に、
広島で敏子とトークショーをする予定だったんです。
そこで岡本太郎の展示があったから、
敏子は一週間前に先乗りにして見るために、
前もって広島に行く予定で。
ところが、
スタッフが広島空港まで迎えに行ったら、
敏子が飛行機に乗ってないと。
どうしたんだろうと、
記念館に電話しても、
たまたま記念館が休みの日で、
実際は亡くなってから、
二日後にわかったんですね。
たしか、
僕が大学の研究室に行ったら、
記念館から電話があったらしく、
ドアを開けた途端に、
事務の子が、
「先生、大変です!
岡本敏子さんが亡くなったそうです」
えええ!って。
それで平野館長と、
その日の夜中に連絡を取り合って、
平野館長は、
「いま俺、ひとりで棺桶の横にいるんだよ」
って。
ぼくが、
「葬式もなにもやらないんだって?」
って聞いたら、
翌日に出棺して、
荼毘に付すと。
「山下さんだったら来てよ」
と言われて、
桐ヶ谷の斎場に行きましたね。
そうしたら斎場の人が、
「あの、お経とかあげなくていいんですか?」
「あ、いいですいいです」
って(笑)、
完全無宗教でしたから。
ま、
そんなこともありましたけど、
なんだか敏子が死んだ気がしませんでしたね。
っていうか、
今も死んだ気がしていません。
それ以後は、
平野暁臣館長が、
敏子の意志を引き継いで。
彼は名プロデューサーだし、
すごく行動力がありますから、
《明日の神話》を持ってきて、
それで四国で場所を借りて、
ものすごい時間と労力をかけて修復して。
その後に日テレでお披露目をして、
現在の渋谷に。
あれをどこに展示するかっていうのも、
名乗り出た場所がいくつかあったんです。
広島と《太陽の塔》の吹田市と、
どこにするか選ぶのにぼくも関わって。
でも結果として、
最高の場所に置けたと思いますね。
他の場所は、
展示施設を作って、
ガラスケースの中にって言ってて。
それじゃダメなんです。
剥き出しじゃなければ意味がない。
そして、
できるだけ多くの人の眼に触れること。
痛んだら、
治せば良いんですから(笑)。
どうせボロボロだったんだから。
だから、
渋谷は最高の場所ですし、
平野さんの尽力はすごかったと思います。
彼はすごく動きが速いんです。
それはすばらしいんだけど、
めちゃくちゃ短気でもあるんです。
グズグズしてると、
すぐにブチ切れるますからね(笑)。
ただ、
ぼくはちょうど彼と同い年で、
彼もぼくにとても敬意を持って接してくれてますし、
ぼくも彼のプロデューサーとしての腕力を尊敬していますから、
ずっとこれからも、
いろんなことを一緒にやっていくと思います。
この「PLAY TARO」の仕事だって、
平野さんに言われたら、NOと言えるわけがない(笑)。
—
次回は、
「山下さんに岡本太郎が憑依!?」
いったいどういうことなのでしょうか?
お楽しみに!
山下裕二⑤
山下裕二
1958年広島県生まれ。
東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院修了。
日本美術史研究者、明治学院大学教授、
日本美術応援団団長、山種美術館顧問。
室町時代の水墨画の研究を起点に、
縄文から現代美術まで、
日本美術史全般にわたる幅広い研究を手がける。
WEBサイト「山下裕二研究室」
https://art.flagshop.jp/
第2回 山下裕二④
:: June 12, 2015
