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竹田鎭三郎氏インタビュー① メキシコに架けたアートの橋

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現在、川崎市岡本太郎美術館にて、
《明日の神話》の助手を務めた竹田鎭三郎氏の
企画展が開催されています。

「竹田鎭三郎-メキシコに架けたアートの橋」展
―岡本太郎《明日の神話》を支えた画家―

今回から数回にわたって、
竹田鎭三郎氏のインタビューをお届けします。

②旗を掲げて、海を渡った
③《明日の神話》の制作がはじまった
④太郎はなにも言わずに黙って筆をとった
⑤違和感を感じたレリーフ
⑥ぶつかりあう太郎とスアレス
⑦〝制限のない美意識〟が太郎を選んだ

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北川民次にあこがれて

平野: 本日は半世紀以上にわたって、
メキシコで活躍されている画家竹田鎭三郎さんにお話を伺います。
竹田さんは岡本太郎の助手として
《明日の神話》の制作に深く関わられた方で、
現地での太郎を知る数少ない関係者のおひとりです。
今回、川崎市岡本太郎美術館で開催中の
「竹田鎭三郎 —メキシコに架けたアートの橋」展の
開催準備のために帰国された機会をとらえて、
こうしてお話を伺う機会をいただくことができました。

今日は、これまで知ることのできなかった
《明日の神話》の制作現場のようすや、
メキシコと岡本芸術の関係などについて
いろいろとお聞きしたいと思っています。

最初に、そもそも竹田さんはなぜメキシコに行かれ、
芸術家人生の大半をメキシコで送ることになったのか、
その辺りからお話いただけますか。

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竹田: 北川民次先生の存在が大きかったと思います。
北川先生は1910年代の終わりに
国吉康雄や清水登之らとともに
ニューヨークで絵描きの勉強をしたあと、
流れ流れてメキシコに渡った日本を代表する画家のひとりです。
メキシコ革命の勃発(1910年)から
十年あまりが経った頃でしたから、
まだ戦火の真っ只中。
北川先生はメキシコ、
いや中南米でいちばん古いサン・カルロス美術学校に入り、
革命後のメキシコでさまざまな活動をした人です。

「イグアナ・ルナ」1991/64×50_R

《イグアナ・ルナ》竹田鎭三郎  1991

平野: その北川民次とどのような出会いが?

竹田: 北川先生が、
ぼくの生まれ育った瀬戸に住んでいらっしゃったんです。
ぼくは田舎っぺの山猿だったから、
芸大に入って、どんな絵描きを知ってるかという話になったときも、
みんながゴッホとかセザンヌとか言ってるときに、
「北川民次」しか言えなかった。

平野: シブい(笑)。
ということは、竹田さんがメキシコに行こうと思われたのは、
唯一知っていた郷土の誇り、
北川民次へのリスペクト、あこがれだったんですね?

竹田: そうです。
先生に弟子入りを志願したくらいですから。

平野: それ、いつ頃の話です?

竹田: 芸大に入ってすぐ、1年生のときだったと思います。
久保貞次郎という美術評論家の方が
「芸術学校に入ったあなたの郷里の若い青年が
なかなか優秀だから、会ってやってくれないか」と紹介してくださった。
で、北川先生を訪ねたぼくは、
ストレートに「弟子にしてください!」って頼んだんです。
だけど、「嬉しいけれど、それはできない。
私は弟子なんて取ったことがないんだ」って断られちゃった。

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平野: 竹田さんの学生時代は1950年代半ばですよね。
その頃、北川民次は日本の美術界でどのようなポジションに?

竹田:北川先生は日本におけるメキシコ美術の先達であり、
紹介者だったわけですけれど、
残念ながら、日本の美術評論の多くは、
北川民次=メキシコ=ニンニクという図式でした。

平野: ニンニク?

竹田: そう。土臭くて、異臭を放つものというイメージです。
整頓され、清潔感のある色彩のハーモニーに
美を見つけようとしていた当時の美術界には受け入れられなかったんです。

平野: なるほど。
その北川民次に竹田さんはあこがれていた。
しかし弟子入りを断られてしまった。

竹田: でもそのとき、先生は
「知り合いに安藤幹衛(みきえ)という絵描きがいるから、紹介しよう。
彼は若いから、あなたに良い指導をしてくれるだろう」
って言ってくださったんです。
「安藤くんは私がメキシコイズムをよく伝えたひとりだから」って。

平野: 安藤さんってどういう方なんですか?

竹田: 岡崎師範(現愛知教育大)出身の作家で、
二科会の会員でした。
当時、瀬戸にいた北川先生が二科会を通して若い人たちに
メキシコイズムを伝えようとされていて、
二科会の若い会員たち5〜6人が薫陶を受けていたんです。
そのひとりが安藤幹衛さんで、
たしか岡本先生とも親しくしていたはず。
歳も近かったんじゃないかな。

平野: 1950年代半ばですよね?
その頃、すでに太郎は二科会でかなり目立ってましたものね。

竹田: そう。一方に東郷青児というヤンチャな人がいて、
反対側にもっとヤンチャな岡本先生がいて。
まさに両極端でした。
北川先生はちょうどその真ん中みたいな感じだったんだけど、
その下の安藤幹衛先生は岡本先生と仲が良かったんですよ。

平野: 当時、すでに太郎はメディアを賑わしていたけれど、
芸大的なアカデミズムの世界からは完全に外れていましたから、
上野の森周辺の“美術村”に住む人たちからは
リスペクトされていなかっただろうし、
「あの人は別の村の住人」といったふうに見られていましたでしょう?

竹田: そうなんです。
あの頃は絵描きの中にも文化人の中にも、
社会主義や共産主義が若い人を引っぱって動いていましたしね。
ただ、そんな中でも、ぼくは岡本先生にどこかで会っているんですよ。
いつどこだったかなあ。ちょっといま思い出せないんだけど。

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平野: メキシコへ行かれる前ですか?

竹田: そう、前です。
きちんとお会いしたのはメキシコですけど…。
ぼくは芸大で学生会をつくったり、
《原爆の図》を描いた丸木俊子さんを講演に招いたりしていた。
そんな中で学生運動やっているときに、
岡本先生の名前が出てきていたような気がするんです。
学生や民衆のためになにかをしようという動きの中で
岡本先生の名前があちこちで出てきていたんですよ。
具体的なことまではちょっと思い出せないけど。

平野: 学生たちの間で太郎が話題になっていた?

竹田: そうそう。
前衛というのか異端というのか、
そういう思想的な意味で前衛という言葉にフォローされる中に
岡本先生の名前があったような気がするんです。
上野の美術館で第1回勤労者学生美術展というのをやったんですが、
たしかそこに岡本先生の作品があったんじゃないかな。



次回はいよいよメキシコに渡る竹田さん。
そもそもなぜメキシコだったのでしょうか?
そこにはちょっぴる不運な運命のイタズラが・・・
お楽しみに!

竹田鎭三郎氏インタビュー②



企画展
「竹田鎭三郎-メキシコに架けたアートの橋」展
―岡本太郎《明日の神話》を支えた画家―

~2015年7月5日(日)まで。
川崎市岡本太郎美術館

入館料は一般900円
高校・大学生・65歳以上700円
中学生以下は無料

月曜日休館(月曜日が祝日の場合は翌日)

詳しくはWEBサイトを御覧下さい。
http://www.taromuseum.jp/

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竹田鎭三郎
1935年愛知県瀬戸市で生まれ、
1957年に東京藝術大学美術学部絵画学科油画専攻を卒業、
同年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に入選する。
北川民次の弟子となり、
1963年メキシコ美術の「魔術的リアリズム」を見るため、メキシコに渡航。
1977年まで版画家として画家として創作を行う。
1987年からオアハカに定住しUABJOの美術教授となる。
1980年には、Escuela de Bellas Artesの造形美術学科長に任命される。
2002年、同校のアカデミックコーディネーターとなる。
約60年間にわたり多彩な作品を生み出してきた。
本展では、新作を含めた油彩、版画作品を展示する。

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