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第2回 山下裕二⑤

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美術史家で明治学院大学教授の山下裕二さんに、
岡本太郎への熱い思いを語っていただきます!

〈前回までは〉
山下裕二①「太郎さんが亡くなって、ただならぬ胸騒ぎがしたんです」
山下裕二②「もう敏子に首根っこ捕まえられたというか

山下裕二③「印象的だったのは、飲めば飲むほど、敏子は太郎さんになっていくんです」
山下裕二④「なんだか敏子が死んだ気がしませんでしたね

最終回です!
岡本太郎から若い人たちに・・・

ぼくにね、岡本太郎が憑依したんだと思うんです。

急にこんなことを言うと、
変だとは思いますけど、

ぼくにね、
岡本太郎が憑依したんだと思うんです。

とくに2000年前後は、
憑依してましたね(笑)。

99年から太郎のことを書きはじめて、
翌年には『岡本太郎宣言(平凡社)』っていう本を出しました。

だから1年くらいで、
ガーーーっと書いたわけです。

だから太郎が96年に亡くなった直後から、
ちょっとふりきっちゃった感じがあって、

その頃ね、
アドレナリンが異常に出てたような気がします。

ぜんぜん寝なくて平気でしたね。

それで、
2000年に『岡本太郎宣言』を含めて、

3冊もほぼ同時に本をだしてます。

じつは、
太郎が亡くなった96年から、

ぼくは赤瀬川原平さんと仕事をはじめるんです。

「日本美術応援団」っていう。

ぼくは赤瀬川さんからも、
いろんなことを学びました。

岡本太郎と赤瀬川原平は、
戦後の美術史のもっとも重要な二人だと思います。

ある意味、
対極でもある。

姿勢ということに関しては。

太郎さんはどこまでも突き進んで、
ド真ん中直球。

赤瀬川さんは、
ちょっとズラしたり、
ちょっと回り道したり、
でも本質はぶれないっていう人でしたから。

実はその赤瀬川さんと、
岡本太郎もまた結びつくんですよね。

赤瀬川さんは、
若いときに太郎さんの本を読んだりして、

60年代に入って、
「ハイレッド・センター」っていうグループを、
つくるんですけど、

その展覧会で、
岡本太郎がテープカットしていたりするっていう。

若いときにそういう微妙な接点があったんです。

太郎んさんが亡くなってから、
赤瀬川さんは改めて、
岡本太郎の撮った写真がすごいとおっしゃってましたし、

太郎さんの文庫本『今日の芸術(光文社知恵の森文庫)』の解説を、
赤瀬川さんが書いたりもしているんです。

これの序文を横尾忠則さんが書いていて、
解説を赤瀬川原平が書いているというのは
象徴的ですよね。

横尾さんも、
ぼくが少年時代にすごく憧れた人でした。

やっぱり万博にも関わってらして、
横尾さんは「せんい館」っていうパビリオンの、
プロデュースをされてましたから。

その横尾さんとも、
ひょんなことから対談させていただいたりとか、

そういう機会があったんですけれども、

この『今日の芸術』という、
岡本太郎の一番重要な著作で、
横尾さんと赤瀬川さんが書いているというのは、
ぼくにとってなんとも嬉しいんですね。

赤瀬川さんの話に戻すと、
岡本太郎記念館に来てもらって、
レクチャーしてもらったこともありましたね。

こんなふうに、
いろんなことが繋がって、
今に至る。

そんな感じです。
敏子が亡くなってからも、

《明日の神話》もそうですし、
文庫版の『岡本太郎の宇宙(ちくま文庫)』っていう著作集を作ったり、

あれも大仕事でしたね。

大学でも、
最近ではぼくの授業によって
太郎のことを知ったんではなく、

ぼくが太郎のことをたくさん書いているのを知っていて、
うちの学校に入学したきた子がいます。

いまはもうそうなってきましたね。

それで、
そろそろぼくの役割も終わったかな、
とも思っているんですけど、
でも、こうした依頼を受けてしまうと(笑)。

もう太郎に関しての仕事は、
いくつやってきたか、
本当に数え切れません。

最後に、
若い人たちはこの「PLAY TARO」に来られているそうなので。

なぜ岡本太郎の言葉は響くのか?

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それは、
若い人たちが、
世間に対しての違和感みたいなものを、
他の大人とはぜんぜん違う言い方で、
ズバッと言ってくれる。

こんな物言いをする人って、
他にはいないんですよね。

ぼくがとくに太郎の好きな言葉をあげると、

「法隆寺は焼けてけっこう」

すごいですよね(笑)。

でもこの言葉だけなら、
他にも言った人はいるんです。

坂口安吾が、
太郎より前に言っているんですね。

でも太郎はこの次に、

「自分が法隆寺になればよいのです」

って続くわけ。

そんなこと言う人間はいない!(笑)

これは『日本の伝統(光文社知恵の森文庫)』のなかに
出てくる言葉なんですけど、

 

美術史をやっている人間として、
美術史のアカデミズムの世界っていうのは、
「法隆寺は焼けてけっこう」なんて口が裂けても言えない、
言わない人ばっかりなわけです。

それとか、
もっとひどいのは、

「仏像のどうもにせもの臭い」

とか平気で書いちゃうわけです(笑)。

このひどさが良いですよね。

こう言われて、
ぼくは美術史を研究している人間として、
太郎に言い返さなければならないんです。

なので、
「美術手帖」で琳派の特集をやったときに、
尾形光琳について岡本太郎が書いた文章を、
そのまま載せて、
それを添削してやりました(笑)

「これは違う!間違ってる」って赤字で。

むしろそうやって、
挑みかかっていかなければいけない。

太郎さんの言葉に感化されている若い人たちに、
そこはちょっと危惧するところです。

太郎さんは決して、
自分を崇拝する人間を作りたい
と思っていたわけでもなんでもないんです。

ああいう過激なこという太郎さんに、
つっかかってくる、
挑みかかるような人間、若い人に
出てきてほしいと思ってたはずなんです。

ぼくも「太郎万歳!」だけを言うつもりなんて、
さらさらありません。

岡本太郎の悪影響って、すごくあるんです。

戦後の美術史において。
ひとつは「ピカソをあまりにも礼賛したこと」です。

パリ時代に、
ピカソの絵に出会って、
それがあまりにもひどい絵で。

「ひどい絵だからこそ、私は感動した!」

っていう言い方なんですけれども。

その後、ピカソに会いに尋ねていって、

「自分と非常によく似た手をしていた」とか、

いろいろ書いてるんですけど。

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このピカソ礼賛が非常に悪影響を与えていると思うんです。

ぼくはピカソがすごいなんてちっとも思わない。

むしろあんなものを、
世界中で礼賛していることに対して、
ぼくは腹が立ちますね。

ですが、
日本の伝統に対する、
岡本太郎の提言というのは、
もっとも重要だとぼくは思っています。

自分との関わりも深いので。
だから「PLAY TARO」っていうのは、
「岡本太郎と遊ぶ」っていう意味だと思いますが、

ただ遊ぶだけではなく、
太郎に挑みかかっていかないとと思います。

取っ組み合いするつもりで、
「PLAY TARO」してもらいたい。

そう思っています。

それと「PLAY」には演じるって意味もありますよね。

ぼくはちょっと憑依しちゃってる感があったので、
勝手に「PLAY TARO」しちゃってたのかも知れません(笑)。

演じるという意味で。

だから、
このサイトで太郎を知った人も、
ひれ伏しちゃだめです。

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山下裕二
1958年広島県生まれ。
東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院修了。

日本美術史研究者、明治学院大学教授、
日本美術応援団団長、山種美術館顧問。

室町時代の水墨画の研究を起点に、
縄文から現代美術まで、
日本美術史全般にわたる幅広い研究を手がける。
WEBサイト「山下裕二研究室」
https://art.flagshop.jp/

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