未分類

竹田鎭三郎氏インタビュー⑥ メキシコに架けたアートの橋

2015_04_27_asunoTAKEDA_0006

《明日の神話》の助手を務めた、
竹田鎭三郎氏のインタビュー第6回です。

〈前回までは〉
①北川民次にあこがれて
②旗を掲げて、海を渡った
③《明日の神話》の制作がはじまった
④太郎はなにも言わずに黙って筆をとった
⑤違和感を感じたレリーフ


今回は《明日の神話》の依頼主である、
スアレス氏との出会いについてお聞きします。

150427-114350_R

ぶつかりあう太郎とスアレス

竹田:そういえば、スアレスはどうやって岡本先生とつながったんだろう?
メキシコで庭師をやっていた小栗(順三)さんが
双方を知っていたという話を聞いたことはあるけれど、
その辺りのいきさつをぼくはよく知らないんですよ。

平野:小栗さんがもっていた画集に太郎の作品が載っていて、
彼がスアレスに見せたようなんです。それを見たスアレスが、
いいじゃないか、建設中のホテルにぜひ壁画を描いてもらおうと。

竹田:ああ、メキシコ人らしい。

平野:で、わざわざここ(青山の岡本邸)まで訪ねてきて、
描いて欲しいって直接頼んだんです。

竹田:ああ、そう。それはすごいな。

150427-123032_R

平野:もともと太郎はメキシコに興味があったし、
あんなに大きな壁画なんて描いたことなかったから、やるやるって(笑)。

竹田:ああ、そうでしょうね。作家ってそうですよね。

平野:当時、太郎は大阪万博を引き受けていましたからね、
いちばん忙しいときだったんだけど、
スケジュールの合間を縫ってメキシコへ行ったんです。

竹田:ああ、そうか。

平野:スアレスが訪ねてきたとき、
ホテルニューオータニに食事に連れて行ったらしいんですよ。
いちばん上に円形の回転レストランがあるでしょう?
それを見たスアレスがめちゃくちゃ感激して、
オテル・デ・メヒコの上にも同じように回転するレストランをつくった。

竹田:ヘリコプターが屋上に着くような、
中南米最高の巨大ホテルをつくろうとした
マヌエル・スアレスっていう男はやっぱりすごいね。
岡本先生を選ぶだけのでかさというのか、強靭さがちがう。

「オアハカ家族」2012/105x230
《オアハカ家族》竹田鎭三郎  2012

平野:作業現場にはスアレスもよく顔を出したでしょう?

竹田:そういえば、現場で岡本先生とスアレスが喧嘩しているのを思い出しました。
ルイスと一緒に脇で見ていたんですよ。
岡本先生、一生懸命しゃべってました、フランス語で。
それを見ながらルイスが言ったんです。
「なあ、竹田、日本ではお金持ちより絵描きの方が上かもしれないけど、
メキシコでは逆なんだよ」って。

平野:なぜ喧嘩になったんです?

竹田:たしか設置場所に関することだったんじゃないかな。
日本では絵描きが自分の主張、言いたいことを言うのが普通ですよね。

平野:芸術家は業者じゃなくて〝先生〟ですからね。

竹田:そう。でもメキシコじゃ金持ちのほうが偉いんです。
これじゃダメだとか、この色は変えろとか、大きさを変えてくれとか、
勝手なことばかり言う。
それがメキシコ流。
でも岡本先生は、大物中の大物、スアレスに食って掛かってた(笑)。

「宴会へ行こう」1976/60x90
《宴会へ行こう》竹田鎭三郎  1976

平野:《明日の神話》の登場人物の中でぼくがいちばんすごいと思うのは、
なんといってもスアレスです。
だって、たかだか印刷された画集でしか岡本作品を見たことがなかったのに、
いきなり東京に来て仕事を頼んだんですからね。
いうまでもなくオテル・デ・メヒコはスアレス一世一代の大事業。
しかもレセプション空間はいちばん大切な「ホテルの顔」です。
そんな大仕事を、東洋の端っこにいるだれも知らない作家に託したんですから。
よくそんなことができたなと思って。日本じゃとても考えられません。

竹田:日本じゃ考えられない。まったくそうですね。
メキシコはほんとうに度量が深いというか…。
どういうふうに説明したらいいのかな。

平野:スアレスならメキシコ随一の芸術家をいくらでも使えたでしょう?
じっさいオテル・デ・メヒコの隣に
「ポリフォルム」っていうシケイロスの美術館をつくってますしね。
それをわざわざ東京まで足を運んで頼みに来たんだから、
太郎も意気に感じたでしょうね。


《パレンケIII》竹田鎭三郎  2007



次回は最終回です。
もしも《明日の神話》がメキシコのホテルに遺っていたら?

「〝制限のない美意識〟が太郎を選んだ」
お楽しみに!

竹田鎭三郎氏インタビュー⑦

 

150427-131603_R

竹田鎭三郎
1935年愛知県瀬戸市で生まれ、
1957年に東京藝術大学美術学部絵画学科油画専攻を卒業、
同年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に入選する。
北川民次の弟子となり、
1963年メキシコ美術の「魔術的リアリズム」を見るため、メキシコに渡航。
1977年まで版画家として画家として創作を行う。
1987年からオアハカに定住しUABJOの美術教授となる。
1980年には、Escuela de Bellas Artesの造形美術学科長に任命される。
2002年、同校のアカデミックコーディネーターとなる。
約60年間にわたり多彩な作品を生み出してきた。

Articles

Special Feature

Channel Taro TV

Read More
:: March 21, 2017

《門扉》制作風景

Read More
:: November 30, 2016

《樹人》制作風景!

Read More
:: August 3, 2016

《五大陸》制作