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竹田鎭三郎氏インタビュー⑦ メキシコに架けたアートの橋

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《明日の神話》の助手を務めた、
竹田鎭三郎氏のインタビュー最終回です。

〈前回までは〉
①北川民次にあこがれて
②旗を掲げて、海を渡った
③《明日の神話》の制作がはじまった
④太郎はなにも言わずに黙って筆をとった
⑤違和感を感じたレリーフ
⑥ぶつかりあう太郎とスアレス

今回はもしもホテル・デ・メヒコが完成し、
《明日の神話》がメキシコに遺っていたら?
いかに反応されていたと思われるかお聞きしました。

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〝制限のない美意識〟が太郎を選んだ

平野:竹田さんは50年以上メキシコにお住まいになっていて、
メキシコ人の感性がよくおわかりだと思うんですが、
もし計画どおりにオテル・デ・メヒコがオープンし、
《明日の神話》がメキシコ社会に投げ込まれていたとしたら、
メキシコ人はこの作品に対してどう反応したと思われます?

竹田:まず第一番に国宝にしたでしょう。

平野:そうですか。

竹田:はい。じっさいメキシコでは多くの壁画が国宝になっています。
日本の関係でいえば、イサム・ノグチが市場の中に
大きなレリーフ状の壁画を遺しています。
これもいま修復され、大切に保存されています。

「ウワホロテの精霊たち」1990/90x179
《ウワホロテの精霊たち》竹田鎭三郎 1990

平野:なるほど。そういえば、《明日の神話》の骸骨ですが、
原爆に焼かれて燃え上がっているでしょう?

竹田:そうそう。

平野:設置されるはずだったのはホテルのレセプション。
大切な顧客をウェルカムする場所じゃないですか。
そんな場所にこんなものを描いていいのかって、
敏子が訊いたらしいんですよ。そしたら太郎が
「日本じゃ無理だし、よその国でもダメかもしれないけど、
メキシコだからいいんだよ」って言ったらしいんですよね。
ほんとにそうなんですか?

竹田:そのとおりだと思います。メキシコだからいいというより、
メキシコはそういうものを求めているんですよ。
そういうものが気持ちにピタッとくるっていうかね。
だから、素直にすっと受け入れたと思いますね。

平野:やはり日本とは感覚が違うんですね。死生観もずいぶん違うだろうし。

竹田:日本人が考える倫理観は、メキシコでは通用しないですね。
たとえば、革命が起きて教会から牧師が逃げちゃったとき、
残された教会に政府が壁画を描かせたんですよ。
オロスコという有名な壁画家が描いたのは、
股を広げた女を膝に乗せてどんちゃん騒ぎをやっている腹の出た金持ちが、
貧乏人が札束をバラまいているというもの。
その後、牧師たちが帰ってきたけど、そのまま使われています。

平野:すごい(笑)!

「美しい花がひらく」1982/89×178
《美しい花がひらく》竹田鎭三郎 1982

竹田:受け入れる幅が広いというのか、美術に対する制限がないんですね。
日本だとアカデミックな観点でこの絵はいいとか悪いとか評価しますけど、
それがないんです。
そういう〝制限のない美意識〟が岡本先生を選んだんですよ。

平野:なるほど。オロスコの教会壁画の話を聞くと、
ホテルに原爆を描くのもアリですね。
いずれも現実に根ざした大衆へのメッセージですものね。

竹田:そうです。
岡本先生は、時代をしっかりとキャッチする力のある人だったんですよ。
それをひっくり返して美術作品として表現する力もあった。
いまこう言うと簡単なことのように聞こえるかもしれないけど、
あの頃の日本ではだれもできなかった。

平野:芸術観がメキシコに近かったのかもしれませんね。

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《ヌード》竹田鎭三郎 1968

竹田:現実社会をキャッチして、それを自分の中で作品化する、
芸術化するというリアクションが、
「美術は民衆のためにある」というメキシコの思想とそっくりです。

平野:ほんとにそうだ。
太郎はいつも「芸術は民衆(ピープル)のものだ」って言ってましたから。

竹田:でもそれは当時の日本にあっては異端だった。
岡本太郎の異端はまさにそこにあるとぼくは考えているんです。

平野:ああ、なんかすごくスッキリした(笑)。

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竹田:でもね、いまになってそう思えるだけで、
当時はそんなこと考えもしなかった。
あのときのぼくは、ただただお金をもらえるから喜んでやっていただけで、
岡本先生のほんとうの気持ちなんてなにひとつ考えませんでした。
バカだったなと思います。やっぱり昔からバカだったんです(笑)。

平野:冒頭で「ニンニク」のお話がありましたよね。
整頓されたものを評価する日本の美術界は、
土臭くて、異臭を放つメキシコ美術を認めなかったと。
それって、当時の岡本太郎に対する画壇やアカデミズムの反応と
とてもよく似ているような気がするんです。

竹田:シケイロス、オロスコ、リベラなどのメキシコの美術家が
アメリカで評価されたのはなぜか、その核になったものはなにか。
ぼくは「生理」だと考えています。

平野:生理?

竹田:そう。「知性」の対極です。ニンニクは生理で、整頓は知性。
しかし、ぼくはニンニクにも知があると思う。
そしてその知はメキシコ革命を生きた。
つまり、メキシコ美術は革命であり、
メキシコは革命そのものを生きていたんです。

平野:それを太郎はわかっていたと。

「My life of Mexico」1967/99x60
《My life of Mexico》竹田鎭三郎 1967

竹田:そうです。それが岡本先生のメキシコ時代なんですよ。
このことにぼくは強く驚くし、それを受け止めた岡本太郎という芸術家の
デリケートな感覚に強い尊敬を抱きます。

平野:ありがとうございます。太郎が聞いたら喜んだと思います。
今日は貴重なお話をたくさん伺うことができて、とても嬉しいです。
太郎がメキシコに惚れたワケがちょっとだけわかったような気がしました。
ほんとうにありがとうござました。

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竹田鎭三郎
1935年愛知県瀬戸市で生まれ、
1957年に東京藝術大学美術学部絵画学科油画専攻を卒業、
同年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に入選する。
北川民次の弟子となり、
1963年メキシコ美術の「魔術的リアリズム」を見るため、メキシコに渡航。
1977年まで版画家として画家として創作を行う。
1987年からオアハカに定住しUABJOの美術教授となる。
1980年には、Escuela de Bellas Artesの造形美術学科長に任命される。
2002年、同校のアカデミックコーディネーターとなる。
約60年間にわたり多彩な作品を生み出してきた。

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