今回の「満月日記」は“死に方”について。
敏子さんのコラムを読んであなたはどのように思うでしょうか?
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朝、ただごとではない烏の鳴き声で眼がさめた。
縄張り争いか、何か異変があったのか、
沢山の烏が集まって来て、
ガアガア鳴きかわしている。
こっそり窓をあけてみると、
隣の庭の高木にも、
前のマンションの屋上の水槽にも、
電線にも、気味が悪いほど真っ黒な群れがてんでに陣どって、
威嚇するように鳴きたて、
何か主張しあっているようす。
何があったのだろう。
しばらくすると、いつの間にか散って行ってしまったが。
都会の鳥の傍若無人ぶりは、
憎らしいというよりこわいようだ。
青山のあたりは神宮の森という格好のねぐらがあるし、
餌にもこと欠かないので、
彼らにとっては食住揃ったまことに住み易い環境であるらしい。
それにしても、
いつも不思議に思うのだが、
あれだけの烏が飛び廻っているのに、
その死骸を見たことがない。
何故だろう。
道路にも、庭にも、一度も屍が落ちていたことがない。
老いて身体の衰えた烏もいるだろうし、
病気や怪我もあるだろうに。
ほんとに何処に行ってしまうのだろう。
昔、象は死期を覚ると人知れず、
きまった象の墓場までよろぼいながらでも歩いて行って、
そこにたどり着いて死ぬのだと聞いたことがある。
あとで、そんなことは人間の作りあげたフィクションで、
象の墓場なんてないとも聞いたから、
本当はどうなのか分からないが。
烏の群れを見ていると、
彼らにもそういう最後に帰り行く定めの場所があるのかしら、
と思ってしまう。
人間社会もそろそろすっきりと軽やかに人生の幕引きをする場、
システムを考える段階に来ているのではないか。
死に方、死なせ方、葬り方、墓の問題。
とかくふれたがらない、ふれてはならないタブーのように遠ざけて、
あまり論議しない。
だがいつまでそれで済むのだろうか。
そうやって逃げている間に、
やたらに壮麗な斎場を作ってみたり、
お葬式のやり方をショーアップしてみたり、
霊園の造成で大儲けしたり。
人の死のまわりに群がる商魂はとめどなく肥大していく。
こんなことをしていたら、
いまや地球上お墓だらけになって、
生きた人間はますます窮屈になるのでは、と心配だ。
ところがどっこい、ちゃんと先廻りする人がいて、
お骨を宇宙に打ちあげて、
宇宙葬まで計画しているそうだ。
やれやれ!
地球上では足りず、宇宙まで。
私は昔話の姥捨山のように、
それに行けば自然死が待っている“お山”があればいいなあと思っている。
誰にも迷惑をかけず、
煩わしさもなくて、
すっきりと向こうの世界へ行ける。
骨は自然に朽ちる風葬にして貰いたい。
だが、今の社会にそんなところはないし、
死体遺棄罪なんて法律もあるから、
そうもいかないだろう。
せめて、お葬式もいらない、お墓も作らないで、と遺言して、
ひっそり始末して貰うしかないのかもしれない。
陰気な話ではない。
私はいまここに生きている仮の身体は自然にかえるというのが、
とても自然な、明るいことだと思っている。
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次回は、この一瞬「やりたいことに集中を」をお送りします。
Toshiko's Essay⑮Crow "Finally the place to come back through?"
敏子のエッセイ⑮カラス「最後に帰る場所は?」
:: July 27, 2016
