明治大学において「東京国際マンガミュージアム」(仮称)の開設準備、および米沢嘉博記念図書館の運営に関わる森川嘉一郎さんとの対談です!
〈前回までは〉
森川嘉一郎①「『おたく:人格=空間=都市』という画期的なもの。」
今回は森川さんがビエンナーレで展示の題材にされた、「秋葉原」に関する研究についてお聞きします。
黒幕の意図が介在しているのかいないのかを確認したわけです。
平野:1996年からヴェネツィア・ビエンナーレに関わってきたとしても、こう言ってはなんですけど、なぜ森川さんのような若手がコミッショナーに起用されたんです? だって、当時はまだ30歳そこそこだったわけでしょう?
森川:ビエンナーレの日本館展示は主催が国際交流基金で、当時は有識者会議でコミッショナーを選んでいたんですね。ただ、その会議のメンバーの多くは美術の方で、建築については実質的に磯崎さんしかいなかったと、間接的に聞いています。
平野:それで磯崎さんが自分でやるしかなかったわけか。
森川:あくまで想像ですが、1996年から立て続けに三回もコミッショナーをされて、さすがに交代したいと思われたのではないかと思います。
平野:(笑)
森川:それで、先ほどの有識者会議の中で、磯崎さんが私を挙げて下さったと聞いています。
平野:大抜擢、っていうか…、普通じゃあり得ない話でしょ?
森川:まさに、あり得ないですね。
平野:磯崎さんという、それこそ世界的な重鎮が果たしてきたポジションに、いきなり〝若造〟が座るわけですもんね。
森川:最初に国際交流基金から電話が来たとき、「コミッショナーって何人でやるんですか?」って聞き返してしまいました。
平野:うん、わかる(笑)。
森川:「ひとりです」って言われて、ようやくそのあり得ない指名が自分に来ていることが認識できました。
平野:(笑)磯崎さんはきっと、すぐ下の重鎮候補世代より、一気に森川さんくらい若い世代に任せた方がおもしろいものになるって思ったんでしょうね。
森川:出展候補となるような建築家コミュニティとのしがらみもありませんし、普通の作家展や作品展よりは、私のように建築の王道からもっとも遠い「秋葉原研究」みたいなことをしている人間にやらせた方が、国際舞台では逆に目を引くと思われたのかもしれません。
平野:やっぱり磯崎さんはやることがちがう。カッコイイな。
森川:「沈むくらいなら、まだ浮くほうがいい」というお考えだったのかもしれないですね。
平野:その頃には展示の題材になる「秋葉原」に関する研究ははじめていたんですか?
森川:はい。もともと磯崎さんが私を挙げて下さったのも、秋葉原に関する私の本を見て頂いていたからです。だから国際交流基金からも「秋葉原の研究を題材にして展示をつくったらどうでしょうか?」といわれました。
平野:具体的にはどういった?
森川:「都市としての秋葉原がどのようにして変わったのか」という調査をしていました。80年代に「都市論」っていうのが流行したことがあって…。
平野:「渋谷」や「吉祥寺」の都市構造なんかが注目されていた頃ですね。
森川:当時は、主に東京の西側で、西武や東急など電鉄系の企業を中心に、ターミナル駅周辺の再開発が進められていました。
平野:若者を呼び込もうとしてね。
森川:テーマパークをモデルにして、駅周辺を大規模に開発する手法が注目されていました。そして、こうしたデベロッパーの商業開発による変化と、「秋葉原」の変化に、非常に興味深い対称性を感じたんです。
平野:森川さん自身、秋葉原にはよく行ってたんですか?
森川:消費者としてしばしば。パソコン関連を買うときもそうですし、スピーカーの自作などもしていましたので。
平野:ぼくが知っている昔の秋葉原は純度100%の「電気街」だったけど、マニアックな人が集まる街という意味では、いまと同じでしたよね?
森川:そうですね。
平野:マニア向けの店が集まるっていうのが他の街と違うところ?
森川:専門店が集まること自体は、秋葉原以外にもいろいろあります。特異性を感じたのは、専門的に扱っている商品の重心が急激に変わりはじめたからですね。ソニーとかパナソニックとか、世界に冠たる大企業の製品が中心だったのに、いきなり海洋堂のフィギュアとか、個人出版の同人誌とかに塗り替えられていったんです。
平野:なるほど。
森川:そこでまず確認したかったのは、そうした塗り替えの裏にデベロッパーがいるのかどうかです。
平野:ジワジワ変わったのではなく、一気に変わったということは、巨大な資本が動いている可能性が高いですもんね、渋谷みたいに。
森川:そうですね。この場所に特定の種類の若者を誘致しようとする商業開発のようなことが行われているのではないか、と疑ってみました。
平野:オタク向けのテーマパークにするっていう開発戦略をイメージしたわけだ。
森川:そういう黒幕の意図が介在しているのかいないのかを確認したわけです。
平野:で、どうだったんです?
森川:まるでありませんでした。
平野:ということは、変化は自然発生的に?
森川:はい。まず経過をたどると、90年代中頃までは、秋葉原にはパソコンやゲーム関連以外のオタク系の店はほぼ存在しませんでした。
平野:漫画専門店とか?
森川:漫画やアニメグッズ、フィギュアなどですね。そういった店は、むしろ渋谷とか新宿・吉祥寺・池袋のような街に展開していました。
平野:80年代に若者向けに開発された場所ですね。
森川:ただし、そうした街にあったといっても、今の秋葉原のように駅前や目抜き通りの一等地ではなくて、そこから少し外れた裏通りや、地下に下りていったところなどに点在しているイメージですね。ちなみに海洋堂さんも秋葉原に移られる前は渋谷でした。
平野:へぇ、知らなかったな。
森川:道玄坂にあったんです。その後、秋葉原駅前の、電気街に通っていた人たちにとっては聖地のようにも見なされていたラジオ会館に進出した。それまで高級オーディオが並んでいたところに、いきなりフィギュアが並ぶようになったんです。
平野:さっきも言ったけど、ぼくが知っている秋葉原は「家電の街」。学生時代にレコードプレイヤーとかカーステレオとかを買いに行ってました。
森川:それが90年代に入る頃に、「パソコンの街」に変わったんですね。ただ、まだMS-DOSが主流で、一般には敷居が高いものでした。専門的な研究者や理工学部の学生でなければ、趣味としてそれを愛好するようなタイプの人が主に使っていたわけです。
平野:なるほど。
森川:加えて、当時からパソコンを愛好していた人たちには、同時にアニメや漫画同人誌のような、「オタク系」の趣味を併せもつ傾向がありました。
平野:そうなんだ。
森川:それで、秋葉原が「パソコンの街」に変わっていったときに、オタク系の商品を扱う専門店がまったくといってよいほどなかったにもかかわらず、需要だけが膨れあがっていったんです。
平野:その後、どういう経緯でオタク系の店が集積するようになったんですか?
森川:オタク系のお店をやっている人たちは自身もオタクだったりするので、自分たちの商品を買ってくれそうな人々が秋葉原に集まっていることは肌で感じていたようです。
平野:うん。
森川:でも、ではすぐに秋葉原に店を出そうという判断になるかというと、そう簡単ではないわけです。97年とか98年になるまで、足踏みの状態が続いていました。
平野:なんで?
森川:マニア向けの店にとって、同業の店がない場所にいきなり進出するのは、リスクが高いんです。
平野:あっ、そうなの? 普通に考えれば、需要があってライバルがいない場所って、いちばんオイシイじゃないですか。
森川:まさに需要があれば、その通りなんです。ただ、マニア系の店の場合、店を成り立たせるだけの客がほんとうにその街に来てくれるのかということが、実際に店を開いてみるまでわかりにくいんだそうです。
平野:そうか。そこで同業者が成り立っていれば、商売になるだけの集客が保証されているっていうことだもんね。
森川:さらに、できればそのライバル店の隣に店を設けるのが理想らしいです。
平野:それはどうして…?
森川:そうした店に行く客は、たいていハシゴしてくれるからです。そして相乗的に、より遠くからより多くの客が来てくれるようになる。
平野:なるほど。で、その足踏み状態に変化が起こるのはいつ頃のことなんですか?
森川:1997年です。「新世紀エヴァンゲリオン」というテレビアニメが、何度か深夜に再放送されるうちに、アニメファンだけでなく一般層にも波及する大ヒットになって、劇場版が上映されました。
平野:覚えてます。
森川:全国の書店に「エヴァコーナー」ができて、ビデオやレーザーディスクも売れました。そしてとりわけ秋葉原と関係してくるのが、諸々の関連商品です。たとえばガレージキットなどは、それまでだと三百個くらい売れれば御の字だったのが、エヴァのヒロインのを出すと、いきなり三千体くらい売れるようになったそうです。
平野:マイナーだった商品アイテムを一般層が受け入れはじめた?
森川:時を同じくして「スポーン」や「スパイダーマン」などの輸入フィギュアが渋谷にいた若い子たちに流行したことが、そのような雰囲気を醸成したようです。エヴァブームで儲かり、追い風が吹いているようにも感じられた。それで、以前から目を付けていた秋葉原にも出店してみようという店が、現れるようになったようです。
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次回は“オタクと大阪万博”についてお聞きします。
森川嘉一郎③
森川嘉一郎 (もりかわ かいちろう)
明治大学国際日本学部准教授
1971年生まれ。早稲田大学大学院修了(建築学)。
2004年ベネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展日本館コミッショナーとして「おたく:人格=空間=都市」展を製作(日本SF大会星雲賞受賞)。
桑沢デザイン研究所特別任用教授などを経て、2008年より現職。
明治大学において「東京国際マンガミュージアム」(仮称)の開設準備、および米沢嘉博記念図書館の運営に関わる。
著書に『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(幻冬舎、2003年)など。
Kaichiro Morikawa talk ② "OTAKU culture lecture"
森川嘉一郎対談②「オタク文化講座」
:: November 15, 2016
