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Reiji Ando talk③"Festival theorist and practitioner of the festival"

安藤礼二対談③「祝祭の理論家であり祝祭の実践者」

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文芸評論家、多摩美術大学美術学部芸術学科教授で「贈与と祝祭の哲学」を担当されている安藤礼二さんとの対談です。

〈前回までは〉
安藤礼二①「ジョルジュ・バタイユを調べていくと、すぐそばに太郎がいる。」
安藤礼二②「自分たちがやっている考古学を比べて、ああ、これはダメだなって。」


今回は「新しい岡本太郎の見方」についてお伺いします。

「『ジャンルをすべて乗り越えて一つの表現の原型を突き詰めていった人』です。」

平野:「太郎は“総合者”だった」っていう安藤さんの見方はじつにおもしろいし、新しい。従来の太郎観とベクトルが逆だから。

安藤:そうなんですか?

平野:うん。いままでみんな「太郎は“多面体”だった」って言ってきたんですよ。さまざまな顔をもつマルチな表現者であることが太郎の特性だってね。

安藤:ああ、なるほど。

平野:じっさいいろいろな表現ジャンルに進出していったし、思想やフィールドワークの領域でも画期的な仕事をしている。

安藤:たしかに、そうですね。

平野:いままでの太郎に対するイメージは「同時並行でいろんなことをやった人」であり、「次々と違う球を投げた人」であって、「つないだ人」っていう見方はほとんどなかったんじゃないかと思います。安藤さんがはじめてじゃないかな。

安藤:そんな大層なものではないです…(笑)

平野:考古学、シュルレアリスム、民族学…。それぞれは互いに無関係に存在しているもので、交差することなんてないだろうと多くの人は考えていると思うんですよ。じっさいぼくもそう思ってた。しかし太郎にとっては区別なんかなかったし、すべてを同じ土俵の上に並べていたっていう分析はじつに新鮮だし、おもしろい。たしかにそういうふうに見れば、太郎のやっていたことがすっきりと見えてきますものね。

安藤:おっしゃる通りです。

平野:太郎は総合者だった、という見方に至った経緯を今日ぜひお聞きしたいです。「けっきょく太郎って何者なの?」っていう…

安藤: 私にとって、太郎という存在はじつにはっきりしていて、それは「ジャンルをすべて乗り越えて一つの表現の原型を突き詰めていった人」です。

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平野:ジャンルを「横断」したんじゃなくて「乗り越えた」と。

安藤:編集者時代、私はシュルレアリスムなどヨーロッパの現代芸術を見ていたわけですが、そのとき強く感じたのは、「優れた表現者は時間的にも空間的にも外側を目指すものだ」ということです。空間的には未開、時間的には古代。しかし太郎は、それらを自らの内に見出した。そこに「表現の原型」を見出し、それしか関心をもたなかった。

平野:あのー、いまの、ちょっと難しくてわかんなかったんですけど…(笑)。

安藤:言い直します。ヨーロッパの人たちは、とうぜんながら「ヨーロッパの現在」にいちばん価値があると考えているわけですよね。

平野:もっとも優れているのは西洋文明であり、西洋文明が世界をリードしているっていうことですね?

安藤:ヨーロッパの人たちは自分たちの芸術が世界の中心だと思っている。逆にいえば、それとは異なった新しいものを探求しようとすれば、自分たちの外側に求めるしかない。

平野:なるほど。辺境に旅して見つけてくるしかないわけだ。

安藤:でも、ヨーロッパの人たちにとっての「外側」が、太郎にとっては「内側」だったわけでしょう?

平野:ああ、そうか。世界の中心はヨーロッパだと考えるヨーロッパ人にとっては、アフリカだろうがアジアだろうが、みんな外側にある探索の対象だった。でも太郎にとっては、旅するもなにも、最初っから自分自身が辺境だったわけですもんね。

安藤:そうです。

平野:そこで太郎は、ヨーロッパ人にとっての時間的、空間的な「外側」に、自分の「内側」を探ることで到達できると考えたと?

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安藤:私はそう考えています。しかもヨーロッパ人たちは、自らの「外側にあるもの」をヨーロッパを補完する材料としてしか見ていない。

平野:他者であり、いわば“お客さん”としか見られないヨーロッパ人に対して、太郎は日本人だから……

安藤:内側の視点で。ヨーロッパ人が外側に探求しようとしたものを、すべて自分の内なる問題として捉え、一つに束ねようとしたのではないのか。

平野: 内側にいる人間にしかできないことはなにかを考えた末に、ヨーロッパ人にとっての「外側」をひとつに総合しようとしたのではないか、っていうことですね? メチャクチャおもしろいな。

安藤:私にとって、太郎の思想として最もおもしろいのは、『縄文土器論』から『沖縄文化論』、そして『神秘日本』にいたる一連の著作、そのフィールドワークです。ヨーロッパの優れた表現者だったブルトンやバタイユなどがわざわざ外に求めに行かなければならなかったのを…

平野:「探検者」として?

安藤:そうです。しかし太郎は、外ではなく自分自身の内を深く掘り進めることによってそこに到達しようとしたんじゃないのか。もしくは、できたんじゃないのか。

平野:太郎は、ヨーロッパで生まれたアヴァンギャルド芸術に大きな影響を受けながらも、自分の生まれた地を徹底的に突き詰めることによって、ヨーロッパの人たちが到達できなかったような深みに到達することができたんじゃないか、ってことですね?

安藤:そうです。

平野:18歳でヨーロッパに渡ったとき、太郎がパリに骨を埋めるつもりだったことは疑いない。つまりヨーロッパに同化し、ヨーロッパの人間として生きるつもりだった。じっさい「まずはフランス文化や西洋文明を学ばねば」と考えて寄宿制の学校に入ったりしています。ところが…

安藤:もっとも優れたヨーロッパの芸術家たちが注目していたのは、西洋自体ではなく西洋の外側にあるものだった。

平野:ぶっ飛んだでしょうね(笑)。せっかく中心にたどり着いたと思ったら、中心にいる人たちがみんな外を向いていたんだから。「あれ? オレはなにをやってるんだろう?」って思ったかも。

安藤:(笑) 外って言うのは、日本を含むアジアだったり、アフリカだったり…あるいは未開や古代の呪術だったりするわけですが、そういうものに触れて、太郎にも発見があったに違いありません。

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平野:ぼくが太郎の行動でいちばん理解できないのは、戦後になってもパリに戻らなかったことなんですよ。

安藤:戻ろうと思えば戻れたわけですし、パリの人たちも諸手をあげて歓迎してくれたでしょうからね。

平野:だれがどう考えたって、戻った方が得だし、太郎自身がそれをいちばんよくわかっていたはず。パリ時代の友人たちはみんな世界的な芸術家、思想家になっているわけで、キャリアを考えれば太郎だってそうなっていた可能性が高いわけですからね。

安藤:そうですね。

平野:であるにもかかわらず、太郎は戻らなかった。なぜだ? とずっと考えているんだけど、いまの安藤さんのお話が答えのひとつかもしれない。つまり、ヨーロッパ人がヘトヘトになってたどり着かなきゃいけない場所に、自分は最初から立っている。この状況を利用しない手はない、ってね。

安藤:私は、そう思っているんです。戦後、「こここそが自分が立つべき場所なんだ」っていうことを、『縄文土器論』や『神秘日本』を書き上げることによって掴んだのではないのか。そういう気がするんですよ。

平野:戻る必要を感じなかったっていうことですね。

安藤:もちろんパリで抽象表現を極めていなければ太陽の塔は生まれなかったでしょう。しかし、パリだけでもやっぱり生まれない。太陽の塔の背景には、『縄文土器論』があり、沖縄の祝祭の発見があったことは確実だと思います。なにもない聖なる場所で、超現実と現実をつなげるシャーマンたちに出会って。しかも彼ら、彼女らはけっして未開でも野蛮でもなく人間の原型的な存在なんだという発見があって…。そういった体験がなければ、太陽の塔はできなかったと思うんです。

平野:太郎は「人間の原型とはなにか」を探求しようとした人だったということですね?

安藤:そうです。私にとって、太郎とはそういう人です。人類学や民族学、それらを生み出したヨーロッパの文化などは重要ではあるが、人間のとる形のひとつに過ぎないと考えていた。それは日本に対しても同様です。

平野:なるほど。

安藤:ヨーロッパの側から見れば、太郎はパリに来た野蛮人でしょう。しかし、そんな自分のような野蛮人の中にこそ、人間にとって原型的なものが存在しているはずだ。ヨーロッパに来なければそういう意識って芽生えないと思うんですよ。

平野:たしかに。

安藤:日本の内側にとどまっていたら「日本最高!」みたいな、いわゆるファシズム的なものに巻き込まれていたかもしれない。でもヨーロッパにいたからこそ、そういう事態を回避できたと思うんです。

平野:憧れのパリに行けたにもかかわらず、西洋美術にどっぷり浸かるのではなく、「人間にとって原型とはなにか?」に関心が向いた。そして自分は、日本というそれを探るのに一番いい場所にいるんじゃないかと考えた。そういうことですね?

安藤:そうです。

平野:それにしても、なんで太郎はそんなことに興味を持ったんだろう?

安藤:太郎がつきあっていたジョルジュ・バタイユが主宰する『ドキュマン』という雑誌ありますが、そこには未開や古代のオブジェが、写真入で紹介されているんです。縄文土器もそうです。

平野:あの時代に?

安藤:そうなんです。フランスには、ブルトンやバタイユも大きな刺激を受けた人類学や民族学を学びに来ていた日本人たちが何人もいたんです。そういった動きと対照的に、フランスの洞窟壁画の最大の研究者と言われているアンドレ・ルロワ=グーランのように日本に来て、アイヌや縄文に出会う人もいました。

平野:当時からそういった人や情報の行き来があったわけですね。

安藤:そうした中で、未開や古代には、イメージ的な思考方法が存在していたんだという認識が芽生えた。その一例が縄文土器であり、洞窟壁画であった。太郎が『縄文土器論』で述べているように、土器は、明確な文字ではないけれど、あきらかになにかを語っていますよね?

平野:はい。

安藤:つまり人間のなかには、言葉ではなく、イメージ的な思考をそのまま造形できる人たちがいるんだと。

平野:なるほど。

安藤:アイヌの人たち、縄文の人たちが残した造形的な表現、装飾的な表現を見る見方でフランスの洞窟壁画を見る。もしくはフランスの洞窟壁画を見る見方で日本の縄文土器を見る。それが1920年代、30年代、さらにはバタイユの『ラスコーの壁画』やブルトンの『魔術的芸術』や太郎の『縄文土器論』が相次いでまとめられる1950年代に、彼らがみな実現しようとしていたことなんです。



次回は「太郎の表現を貫いているもの」とは?

安藤礼二④「太郎も歌と踊り、お祭りの中に演劇の起源、芸術の発生があると考えていたと思うんです。」

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安藤礼二

1967年、東京生まれ。
文芸評論家、多摩美術大学美術学部芸術学科教授。
早稲田大学第一文学部卒業。大学時代は考古学と人類学を専攻。
出版社の編集者を経て、2002年、「神々の闘争――折口信夫論」で群像新人文学賞評論部門優秀作を受賞、文芸評論家としての活動を開始する。
『神々の闘争 折口信夫論』(講談社、2004年)で芸術選奨文部科学大臣新人賞、『光の曼陀羅 日本文学論』(講談社、2008年)で大江健三郎賞、伊藤整文学賞を受賞。
他の著書として『近代論 危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版、2008年)、『霊獣「死者の書」完結篇』(新潮社、2009年)、『場所と産霊 近代日本思想史』(講談社、2010年)、『たそがれの国』(筑摩書房、2010年)、『祝祭の書物 表現のゼロをめぐって』(文藝春秋、2012年)、『折口信夫の青春』(富岡多惠子との共著、2013年)、『折口信夫』(講談社、2014年)がある。

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