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Reiji Ando talk⑤"Festival theorist and practitioner of the festival"

安藤礼二対談⑤「祝祭の理論家であり祝祭の実践者」

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文芸評論家、多摩美術大学美術学部芸術学科教授で「贈与と祝祭の哲学」を担当されている安藤礼二さんとの対談です。

〈前回までは〉
安藤礼二①「ジョルジュ・バタイユを調べていくと、すぐそばに太郎がいる。」
安藤礼二②「自分たちがやっている考古学を比べて、ああ、これはダメだなって。」
安藤礼二③「『ジャンルをすべて乗り越えて一つの表現の原型を突き詰めていった人』です。
安藤礼二④「太郎も歌と踊り、お祭りの中に演劇の起源、芸術の発生があると考えていたと思うんです。」

今回は太郎が探し求めてきた「研究」と「表現」について。

 「自分のやっていることは客観的でもあるし主観的でもあるんだという人たちです。」

平野:太郎が「原始」や「根源」みたいなことを考えるようになった背景にはなにがあったんでしょう?

安藤:やはりパリ時代が大きいと思います。民族学の対象になっていたのが、まさに自分が生きてきた世界だった。ヨーロッパからすると「外側の世界」を、研究者だけでなく表現者までもが注目し、そこから新しい表現を導き出そうとしていた。

平野:「外側の世界」から新しい表現を?

安藤:はい。

平野:つまり“外側問題”は、民族学研究者としてだけでなく、芸術家としても突き詰めなければならない問題だった、ということですね?

安藤:だからこそ日本中を駆け回って精力的にフィールドワークを行ったんだと思います。そしてその結果、パリに帰る必要はもうないと思った。

平野:なるほど。パリはこんなに恵まれた環境ではないと。

安藤:だったらメキシコに行ったほうがいいと思ったでしょうね。

平野:太郎は沖縄の御嶽に感動しますよね。なんにもないのがいい、と言って。それがぼくにはわからないんですよ。まったく実感が湧かなくて。

安藤: なにもないことによって、逆にそこにあらゆるものが一気にあらわれ、一気に宿るのだと思います。

平野:?

安藤:モノとして貴重なものはなにもないけれど、石と樹がある。それらが超現実をひらき、神がそこに降りてくる媒体になる。太郎だって媒体ですよ。太郎のつくる作品群も、見える世界と見えない世界を繋ぐ媒体となるものです。

平野:太郎がつくろうとしたのは、御嶽にあるなんでもない石や樹のようなものだったと?

安藤:そう思っています。

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平野:『縄文土器論』で太郎は「縄文時代には“見えない力”に呼びかけていた」って書いているけど、じっさいに呪術や魔術などの超自然的な力が存在すると信じていたわけではない。じっさい「私たちには、すでに四次元との対話はありません」って書いてますもんね。

安藤:それはそうだと思います。ただ『縄文土器論』でおもしろいのは、「空間そのものを造形しようとしている」と書いているところです。土器はただの容れ物ではなく、三次元の中にもう一段高い次元を織り込もうとしている。太郎が彫刻をつくりはじめるのは50~60年代ですよね? おそらく自分にとっての縄文土器をつくろうとしたんじゃないでしょうか。

平野:縄文土器には、縄文人の精神や心のありようを練り込もうとする意思の力があった…

安藤:呪術師がつくっている仮面や神像などと近しいと思います。

平野:そう考えていった場合、太陽の塔はどういう存在だということになりますか? 直感的に言って、岡本芸術の集大成であり、太郎がやってきたことがぜんぶ投入されているように見えるけど、ぼく自身、それをロジカルに説明することができないんですよ。

安藤:太陽の塔は、太郎自身が探求してきた民族学の「研究の成果としての人間の原型」と、自分がつくってきた「表現の成果としての人間の原型」が合体したものではないか、というのが私の見方です。

平野:いま「研究」と「表現」というふたつのキーワードが出てきましたが、それぞれどんなふうにイメージしたらいいですか?

安藤:研究は客観的で、表現は主観的。研究を「知」とすれば、表現は「情」です。

平野:右脳と左脳みたいなことですね。

安藤:普通はどちらかを選ばされるわけですよ。でも選びたくない人たちもいっぱいいる。たとえば私が関心を持ってきたブルトンやバタイユ、折口信夫や南方熊楠のような人たち。自分のやっていることは客観的でもあるし主観的でもあるんだという人たちです。彼らは、主観的な感情をできるだけ客観的に造形化し、表現することによって、多くの人たちに共感してもらえるものをつくるわけです。

平野:でもアカデミズムの世界では、主観が入り込んじゃいけないんでしょ?

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安藤:そうなんです。私が考古学をやめ、大学に残ろうと思わなかったのもそのためです。なにかをつくろうとしたら主観の立場に立たないと無理ですよね。

平野:でもそれじゃ優等生にはなれないね(笑)。

安藤:まさにそうです。だから、そういう奴は例外なく落ちこぼれるんです。アカデミズムには残れない。私もいまは美術大学で教えていますけれど、基本的にはずっと肩書きなし、専門分野なしで書いてきましたから(笑)。

平野:もしかして、折口信夫も劣等生?

安藤:もちろん劣等生です。南方熊楠もね。

平野:南方はそうだろうな。外れものですよね。

安藤:日本を代表する哲学者の西田幾多郎や鈴木大拙も高等学校中退ですからね。

平野:そうなの?

安藤:無理なんですよ、優れたものをつくろうとしたら、アカデミズムなんて。

平野:それはおもしろいな。

安藤:もちろん岡本太郎も完全にその伝統に入ると思います。



次回は「究極のモノとして太陽の塔」について。

安藤礼二⑥「太陽の塔を建てることで、『原型的なものを思い出せ』と言っている。」

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安藤礼二

1967年、東京生まれ。
文芸評論家、多摩美術大学美術学部芸術学科教授。
早稲田大学第一文学部卒業。大学時代は考古学と人類学を専攻。
出版社の編集者を経て、2002年、「神々の闘争――折口信夫論」で群像新人文学賞評論部門優秀作を受賞、文芸評論家としての活動を開始する。
『神々の闘争 折口信夫論』(講談社、2004年)で芸術選奨文部科学大臣新人賞、『光の曼陀羅 日本文学論』(講談社、2008年)で大江健三郎賞、伊藤整文学賞を受賞。
他の著書として『近代論 危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版、2008年)、『霊獣「死者の書」完結篇』(新潮社、2009年)、『場所と産霊 近代日本思想史』(講談社、2010年)、『たそがれの国』(筑摩書房、2010年)、『祝祭の書物 表現のゼロをめぐって』(文藝春秋、2012年)、『折口信夫の青春』(富岡多惠子との共著、2013年)、『折口信夫』(講談社、2014年)がある。

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