仕事でときどき中南米を訪れるが、むんむんする濃い生活感にいつでも感動する。機械のなかに住んでいるような近代都市よりも、目もさめるような青々とした緑の広場を持った町のたたずまいははるかに豊かな感じだ。この開放された、手入れの行き届いた清らかな緑の上で、インディオたちがのんびりと憩(いこ)うている。身ぎれいとはいえないが、彼らの姿は美しい。聞くところによると、在留邦人たちは身辺の無頓着(むとんちゃく)さや教育の無さから、彼らをあまり認めていないらしいが。

なるほど日本人はきれい好きだ。これは定評がある。身のまわりをきちんと片付けたり、規則規則とやたらに細かく物事を取り締まったりする性格。たいへん結構だ。だが私などそこに、ふと「きれい好きの不潔さ」とでもいうような一種のいやらしさを感じてならない。

第一ホテルから銀座に抜けるガード下を通ったら、おびただしいゴミが、もう何か月もたまっているような風情(ふぜい)で歩道にちらばっていた。いつもここを歩くたびに不潔さにあきれる。終戦後しばらくはいたし方なかったとしても、あれからずっとそうなのだ。取り締まりのうるさい交番もそばにあるのに一向に変わらない。今は工事中だが、外務省から日比谷公園まで、かなり広いグリーンベルトがあった。植木や芝が植えてはあるが、ひどく貧相で、ここにもゴミ捨て場のようにいつもゴミがたまっていた。

日本中どの都市でも見る光景だ。町に緑を、とか公園をとか言ったって、見事に手入れされた誇らしい緑であってこその話。ところで私はここではそのきたなさについて文句をつけているのではない。きれい好きのような顔をして気どっているし、実際自分の身のまわりだけには神経を使っている。そのくせ直接責任のない場所についてはきたなくても平気。意外にもまことに無関心なのである。私はそういう「きれい好き」人種の、コチンと己(おのれ)の領分だけにかたまったエゴイスティックな根性が不潔だというのである。