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Okamoto Taro Column ⑥ " Teaching " and " education "

岡本太郎コラム⑥東風西風「教」と「育」

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むかし学問は人格だった。精神に裏づけられ、高潔な人間像を作りあげるためにあった。洋の東西を問わないが、とりわけ東洋の伝統は。

しかし科学の勃興(ぼっこう)、産業革命を起点として、人間の生活が急速に進展しはじめると、知識と精神も分化する。ところがその明らかな現象が、かんじんの教育の世界では明確にされていない。そこに今日の矛盾が現出する。大学当局や教授連のなすところない混乱ぶりに、世の中では批判的な空気が強いが、問題の根は深い。

私は「教育」という観念、そして言葉自体を変革しなければならないと思うのだ。「教」と「育」とをはっきり区別することだ。

教えるというのは、知識なり技術を、持っている側から持っていない、欲する方にコミュニケーションすることだ。冷静に、必要なものを伝え渡せばいい。育の方はもっと人間的な関係であり、あたたかい伝達である。だから幼児教育は育の方が主体であり、成長するにつれて教の分野がひろがってくるといえるだろう。大学教育などは「教」だけと考えるべきだ。人間的に対等であり、だからこそ人格的影響は相互に、自然にあふれる。

たとえば運転免許をとるとすれば、教習所に行く。インストラクターには運転技術だけ指導してもらえばいいのだ。なにも人格高潔、精神的クントウまでは期待しない。そんなことは当たり前。だがとかく、とんでもないところで道徳的指導をやりたがる。

今日のようにすべてが専門化し、細分化されて、日に日に高度になって行く時代、学者も同じことで、その分野ではすぐれた能力をもち、業績を示しても、全人間像としては意外にかたわな人が多い。それでも役割はあるわけなのだ。それを「教育者」と呼ぶために、父兄や社会一般はもちろん、学生も、教育者自身も混迷している。

そういう点をはっきり割り切れば、学問も日常生活もより高度な、明朗なふくらみを現出するはずである。

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