食後、つやつやと大粒のイチゴを口に運びながら、ふと思う。このごろはイチゴを食べるときに、ちっとも感激がない――何かお義理で食べるような気分。イチゴの方もやたらに赤々、まるまると、義理で食べられる風に育ち、小皿(こざら)の中におさまっている。
イチゴ――かつては鮮烈な初夏の感動であった。五月、食卓に真っ赤なよろこびとしておどり出してきたそのかおり。ああ、イチゴの季節だ。ささやかだが生きるよろこびを感じた。貴重感もあって本当においしかった。食卓はイチゴによって豊かにいろどられた。
戦後、ビニールハウスの技術などが発達して、年がら年中お目見えする。大きくさえあれば上等だと思うらしく、肥満児みたいに、ぶくぶくとただ柔らかい。しかし何か作られた味。大味。季節のにおい、歯ごたえがない。
作る方も食べる方も、はき違えているのではないだろうか。イチゴはあのちょっと青くさいようなすっぱいようなかおりと、粒々の感じ、舌への抵抗。つまり野性味こそが生命だと私は思う。ただねっとりと、人工の練りもののようで、うす甘いだけという、近ごろの栽培イチゴは見た目が立派なだけに、余計に味気ない。
そういえば肉もそうだ。日本の牛肉は世界一だなどという自慢をよく聞くが、本当にそうだろうか。ここでも抵抗なく舌にとろけるのが上等と考えられているようだ。しかし、いかにも動物の肉にかぶりつき、かみしめるという、野性的な肉食のよろこび、あのナマナマしい歯ごたえは失われている。作られすぎているのである。
日本人は日本の味がよくわかる民族だ、素材そのもののよさを味わうと言われている。確かにそうなのだが、器用であり、勤勉であり、こりすぎるという性格がこういうところにもあらわれてくる。自然の美しさを愛しながら、それがいつの間にか、作られた、様式化された自然になっている危険。
野性味。人間の根源的なよろこびをとり戻すべきではないか。
Okamoto Taro Column ⑪ " No time strawberry "
岡本太郎コラム⑪東風西風「時なしイチゴ」
:: June 29, 2018
