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Okamoto Taro Column ㉒ " Wheelchair musician "

岡本太郎コラム㉒東風西風「車イスの音楽家」

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先だって、あるテレビの番組で身体障害者の音楽家に会った。顔のつやはいいのだが、筋が萎縮(いしゅく)する病気で、手足とともに、なえ、ひんまがっている。痛々しい。車椅子(いす)に身をよじるせながらハモニカを吹いて聞かせてくれた。自分の作曲した曲である。やがてオーケストラと歌手がそれに合わせて歌いはじめる。彼の頬(ほお)に涙が流れるのか見えた。

私は異様な感動をおぼえた。曲や涙にではない。この一つのささやかな運命がクライマックス達した瞬間。象徴的な瞬間にである。

あのゆがんだ手、足。動かない、もどかしい、ひんまげられた人生。私はそこに、逆に生々しい「人間」の姿を見る思いがした。このように残酷に象徴化されているが、実はこれこそ人間そのものの姿ではないのか。

人だれ誰でもカタワなのだ。たとえイカシた格好していても、八頭身であろうが、それをもし見えない鏡に映してみたら、それぞれの絶望的な形でひんまがっている。しかし人間は、切実な人間こそは自分のそのゆがみに残酷に対決しながら、また撫(な)でいたわりながら、人生の局面を貫いて生き、進んで行くのだ。人間はたしかに他の動物よりも誇りをもっているかもしれない。しかしその誇りというのは奇怪な曲折を土台にしている。悲しみ、悔い、恥じる。あるいは無言にまた声をあげて。しかしそれも人生の一つの歌にすぎない。

自分のひそかな不具にたえながら、それを貫いて生きるしかない。そして救われたり救われなかったり。目を凝らして見れば、それがあらわに人間生活の無限のいろどりとなっているのが見えるだろう。とりわけ、強烈な人間像に接するとき、私はふとグロッタの奇怪で峻厳(しゅんげん)な、そして圧倒的なイメージを目に浮かべる。
あの身体障害者の萎縮してひんまがった手を見ながら、私は自分自身の肌(はだ)に触れるような、むしろ喜びにいたセンセーションを覚えた。それは痛烈に、やさしい感動だった。

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