フランス文学・思想の研究をはじめ、世界史や戦争、メディア、芸術といった幅広い分野での研究・思索活動で知られる西谷修さんとの対談です。
第二回目は「バタイユの『死』」。
〈前回までは〉
①「それが『言葉のもった生きもの』のセクシュアリティなんですよ。」
「バタイユは『死は生きる人間にとっての極点』だと考えていました。」
平野:エロスのことはなんとなくわかったけれど、それは「死」とどんな関係があるんですか?
西谷:たとえば、性活動をしているときに気を失ったりしますよね? 失神するでしょ?
平野:ええっ! 失神したことなんてありませんよ(笑)。西谷さん、あるんですか?!
西谷:あ、いや、失神っていうのは、「精神を失う」っていう意味でしょう。
平野:あ、そうか。人間として「精神的に死ぬ」っていうことですね?
西谷:飛んじゃうわけです。
平野:なるほど。
西谷:これはヨーロッパのボキャブラリーで、そういう趣旨のことを「小さな死」 と言います。
平野:そもそも、その場合の「死」ってどういうことなんだろう?
西谷:死ぬとはなにか。まずは、なにを言おうが、人間は自分のことをコントロールできない。それが人間にとって決定的な限界です。
平野:人間は自分で死を選べないっていうことですか?
西谷:「死んでみろ!」と言われて「死んでやる!」と言ってみたところで、死ぬことはできないということです。
平野:むずかしいなぁ。
西谷:「〝死のう〟と言って死ねる」ことを示そうとしたのがドストエフスキーの『悪霊』という小説のキリーロフっていう人物なんだけど……
平野:「死ねる」っていうのは、自分の自由意志で自分の死を選ぶことができるという意味ですよね?
西谷:小説のなかで、キリーロフは何の理由もなく無根拠に死ねる、ということを示そうとして、人の言うなりにピストルをぶっ放した。そして「これで人間の自由を証明した」って言うわけ。
平野:そうなると、「やっぱり人間は死ねるじゃないか」っていう話になりませんか?
西谷:それに対してモーリス・ブランショが示したのは、「ピストルをぶっ放して、自分を殺したつもりになることはできる。ただしそれは、自分をあたかも自分以外の他人であるかのようにして殺したに過ぎない」と。
平野:ん?
西谷:「殺す」というのは、「人間にとって可能性の領域だ」と言うんです。つまり目的のある行為。
平野:うーん……
西谷:けれどもそれは、「自分を他人のように殺そうとしたに過ぎず、わたし自身が死ねたわけじゃない」ってね。
平野:いやー、むずかしいなぁ。
西谷:ここらへんはちょっとむずかしいけど、こういうことです。「死ぬぞ、死ぬぞ、死ぬぞー!」って力を入れても、人は絶対に死ねない。そうではなく、死というものは、「死にたくない、死にたくない」と思いながらも、どこからか来てわたしたちを消していく。そういう出来事なんだと。つまりブランショは、すごく観念的だけど、「わたしは自分に死を与えたつもりになる。その行為はできる。けれども、その死を受けとめるわたしはそこにいるのか?」と言うんですね。
平野:たしかに、死を受けとめる〝わたし〟が消えてしまうのが死ぬっていうことですものね。
西谷:だから、本質的に人間が言葉を使う限り、〝わたし〟は死ぬことができないと。屁理屈にもみえるけれど、じっさい「言葉を話す動物だけが、死ぬことを求めたり、あるいは死ねると主張したりする」わけですからね。
平野:なんか、よくわかんないけど、おもしろいなあ。
西谷:言葉の構造は、「わたし」が「死んだ」という過去形の動詞の主語になることを禁じている。そうでしょう?
平野:ああ、なるほど。
西谷:「これから死ぬ…」「もうじき死ぬぅ…」とは言えても、「…ああっ、やっと死んだ」とは絶対に言えない。
平野:そうか。正しく言葉を使おうとしたら、たしかに「わたしは死ぬことができない」ですよね。そのあたり、バタイユはどう考えていたんですか?
西谷:バタイユは「死は生きる人間にとっての極点」だと考えていました。ただし「それはインポッシブルである。不可能である」と。
平野:到達不可能ってことは、ブランショの考え方とほとんどいっしょですね。
西谷:それで生の過剰な極点まで人間を引っ張っていくのがエロティシズムであると考えた。ある種の狂気の錯乱、陶酔の領域にも通じるとね。宗教的な儀礼で、たとえばブードゥーの儀礼などでは鳥の首を刎ねて、血を体にかけるなんてことを錯乱状態でやるでしょう?
平野:エロスはそういうものとつながっているってことですか? エロティシズムとは「疑似的に死ぬ」こと?
西谷:そう。これ以上行くと死んでしまう、そういう極点に開かれた人間の活動領域です。けれども、それがないと人間は繁殖できない。つまり繁殖活動とはまさに生と死をかけた領域だってことです。
平野:性行為のときに「いく」と表現するのは、あっちの世界に行くっていう意味なんですね?
西谷:これ以上行くと死んじゃうかもしれない、というね。
平野:それって、人間にとって最大級の快感、快楽の瞬間ですよね。つまり、疑似的であるとはいえ、死に接近していくときに最大の喜びが訪れるってことだ。
西谷:ただ、それが喜びであるかどうかっていうのは、それをポジティブなものとして位置づけられるかどうかにかかっているわけです。フグの毒とおなじでね。うまいと思ったら絶対にうまい。でも、ひどいものだと思ったら、ちょっと舐めただけで二度とやらないでしょ? それとおなじ。
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次回は「バタイユとは何者だったのか」。

西谷修
1950年生まれ。
東京外語大学名誉教授。
著書に『「西谷修 著書に『アメリカ 異形の制度空間 (講談社)』、
『夜の鼓動にふれる:戦争論講義』(筑摩書房)など。