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OsamuNishitani Talks⑪ "I and the world"

西谷修対談⑪「わたしと世界」

フランス文学・思想の研究をはじめ、世界史や戦争、メディア、芸術といった幅広い分野での研究・思索活動で知られる西谷修さんとの対談です。
第十一回目は「コミュニケーション」。

〈前回までは〉
①「それが『言葉のもった生きもの』のセクシュアリティなんですよ。」
②「バタイユは『死は生きる人間にとっての極点』だと考えていました。」
③「周りから見たら、『ちょっと救急車呼んだほうがいいんじゃない?』って話ですよ。」
④「わたしっていうのは、単にここに座っている人間のことではない。この空間全体がわたしなんです。」
「いまの世界だったら、だれもが変なカルトだと言うかもしれない。」
⑥「洗練や古典化なんて摩滅した感覚だ。感受性から世界を変えないといけない、と彼らは考えた。」
⑦「それまで褒めた讃えられ、権威になっているものすべてが『ふざけるんじゃねえ!』っていう感じだった。」
「もはやモダニズムを追う、さらに新しいものを追うっていう、そういう思考ではなくなっていたんじゃないかと思うんです。」
⑨「『描くとか作るというのはどういうことなのか』を突き詰めようとしたんだと思うんですよ。」
⑩「現在しかない。つまり、時間が流れてない、持続を断ち切るこの一瞬、瞬間こそが永遠であり、ここにすべてが開かれてある」

「人がものを考えるのは、自分でそうしようと決めたからじゃない。人間って、もともと考えるようにつくられているんです。」

平野:太郎は前衛でありながら、つまり権力を否定する側に立ちながら、一生懸命に大衆を啓蒙してまわりました。一般向けの本をたくさん出版し、全国を講演に飛び回って、「芸術とはなにか」をひたすら説いたわけです。前衛なのに啓蒙に情熱を傾けた。これって矛盾ですよね?

西谷:でもね、前衛は啓蒙するものなんですよ。理解されるかどうかは別として。

平野:え? でも啓蒙って体制側の人間がやることでしょう? 前衛とは居場所がちがうんじゃないかと思っていたんですけど……

西谷:ある意味ではそうなんだけど、でも啓蒙思想は、もともと王政を倒すためのものですからね。

平野:あ、そうなんだ。啓蒙って、権力サイドが大衆を隷属させるための手段だと思っていました。

西谷:いまではそんなふうに機能しているんだけれども、もともとは神の権威、王の権力、そういうものに従っていちゃいけないと。それは盲目の隷従だ。理性の光で照らしてあげるから目覚めなさい……これが啓蒙です。

平野:あ、そうか。なるほど。それが啓蒙の原点なんですね。

西谷:でも民衆はなかなか理解しないし、勉強もしないと。だったら、オレたちが身を犠牲にして突っ走って状況を変えよう……これが前衛です。もともと前に出て守る兵隊(アヴァン・ギャルド)という意味ですからね。だから前衛芸術は大衆に理解されなくたっていい、突っ走るんだっていうね。

平野:はい。

西谷:だけどバタイユ、岡本太郎は前衛のエリート主義を拒否する。愚劣でどこが悪い、というわけです。むしろ上下のないコミュニケーションの衝撃が重要なんだと考えた。

平野:バタイユもひたすら社会に話しかけたりしてたんですか?

西谷:そう。ただね、一生懸命に書くんだけれど、だれにも理解されないんだな(笑)。

平野:いい話だ(笑)。

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西谷:『内的体験』を書いて、『有罪者』を書いたけど、だれも理解してくれない。なので、今度は一般に通じる言葉で書こうと思って、社会学や経済学を取り込み、経済学に取り憑くような形で『呪われた部分』を、そして社会学に取り憑くような形で『エロチシズム』を書くんです。

平野:世間的にはけっこう読まれたんですか?

西谷:だいぶ読まれたと思いますよ。60年代から70年代にかけて日本でもずいぶん読まれたしね。

平野:バタイユにしろ、太郎にしろ、一般大衆、一般社会に問いかけをつづけたのは、美術なり、社会なり、そういうものに巣食う古いカビの生えたなにかを変えたいという衝動に駆られた、あるいはオレにはそうする使命があると思い込んだから?

西谷:人がものを考えるのは、自分でそうしようと決めたからじゃない。人間って、もともと考えるようにつくられているんです。
言葉ってぜんぶ人から与えられるものでしょ? 自分が「日本語っていい言葉だな」と感動して習いはじめるわけじゃない。

平野:そうですね。

西谷:言葉を話せるようになると、なんらかの考えを伝えることをはじめるわけです。考えを伝えるネットワークのなかに入らない限り、わたしはわたしとして承認されないしね。

平野:はい。

西谷:大切なのは、自分がなにかを考えるときに、ゼロからすべてを発明するわけじゃなくて、人の言ったことをもとに考えるということ。

平野:たしかに。

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西谷:バタイユは「思想とは、他人の考えをブリキのように積み上げることだ」と言ってます(『宗教の理論』)。主張とは自分が発明するものではなくて、自分がどこかから受けとったものを組み替えながら、どうやって「これじゃまずいだろう」と言うかってことなんです。

平野:コミュニケーションの輪のなかに入っていない限り、「考える人」として生きていくことはできない。自分ひとりではなにも考えられないから。

西谷:そういうことです。

平野:そうか。なるほど。

西谷:だからバタイユは、「わたしの言葉の使いかたは古典的である。つまり万人に通じるはずの言葉で書いている」と主張しています。要するに、オレはメチャクチャを書いているわけじゃないんだと。

平野:だからわかってくれよって?

西谷:そう(笑)。でもね、「自分が言おうとしていることは、たぶんみんなの理解の仕方を逆なでするようなことだけれども、でも逆なでしてでも伝えたいから、そのために古典的な言葉の使いかたをしているんだ」と。もしコミュニケーション(人びととのつながり)なんてどうでもいいと考えていたら、どこかの海に飛び込んだか首を吊っていたかもしれない。

平野:そうですか。

西谷:生きるってことは、それも表現するってことは、人々とのコミュニケーションのある世界にいるってことですから。



次回は「人間にとって表現とはなにか」。

⑫「誰かが見て、『いいな』っていうこの感じ、この出来事がその絵を生かす。それが共同性です。」

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西谷修

1950年生まれ。
東京外語大学名誉教授。
著書に『「西谷修 著書に『アメリカ 異形の制度空間 (講談社)』、
『夜の鼓動にふれる:戦争論講義』(筑摩書房)など。