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OsamuNishitani Talks⑭ "I and the world"

西谷修対談⑭「わたしと世界」

フランス文学・思想の研究をはじめ、世界史や戦争、メディア、芸術といった幅広い分野での研究・思索活動で知られる西谷修さんとの対談です。

最終回は「腐るということ」。

〈前回までは〉
①「それが『言葉のもった生きもの』のセクシュアリティなんですよ。」
②「バタイユは『死は生きる人間にとっての極点』だと考えていました。」
③「周りから見たら、『ちょっと救急車呼んだほうがいいんじゃない?』って話ですよ。」
④「わたしっていうのは、単にここに座っている人間のことではない。この空間全体がわたしなんです。」
「いまの世界だったら、だれもが変なカルトだと言うかもしれない。」
⑥「洗練や古典化なんて摩滅した感覚だ。感受性から世界を変えないといけない、と彼らは考えた。」
⑦「それまで褒めた讃えられ、権威になっているものすべてが『ふざけるんじゃねえ!』っていう感じだった。」
「もはやモダニズムを追う、さらに新しいものを追うっていう、そういう思考ではなくなっていたんじゃないかと思うんです。」
⑨「『描くとか作るというのはどういうことなのか』を突き詰めようとしたんだと思うんですよ。」
⑩「現在しかない。つまり、時間が流れてない、持続を断ち切るこの一瞬、瞬間こそが永遠であり、ここにすべてが開かれてある」
⑪「人がものを考えるのは、自分でそうしようと決めたからじゃない。人間って、もともと考えるようにつくられているんです。」
「誰かが見て、『いいな』っていうこの感じ、この出来事がその絵を生かす。それが共同性です。」
⑬「わたしなんかからすると、『一番いいところまで行っている』っていうか……」

「存在を揺さぶられるようなもの。醜くても、それが芸術、表現だと。」

平野:さっきも言ったように、太郎は「芸術とは太陽のようなものだ」と考えていたわけですが、西谷さんはドキュメンタリー映画『太陽の塔』のなかで、バタイユの「太陽肛門」の話をされていましたよね。そもそも「太陽肛門」とはどういうものなんですか?

西谷:バタイユが若いときに書いた「太陽肛門」っていうテクストなんですが、それはね、『眼球譚』とおなじで……

平野:『眼球譚』?

西谷:眼玉をモチーフにして、メタファーで物語を転がしてゆく、ポルノ……っていうか、最後に女の子と少年が戯れていて、若い神父の眼玉をくりぬいて、その女の子が自分の股間に入れる。それが涙を流している眼に見えたっていうオチ…(笑)

平野:なるほど(笑)。それって思想となにか関係あるんですか?

西谷:その頃バタイユは精神分析治療を受けていたんですね。で、「なんでもいいから、いろんなことを気にせずに書きたいように書いてみろ」と言われて書いたのがそれです。

平野:けしかけられたわけだ、バタイユは。

西谷:オーソドクスじゃない治療プロセスだと言われています。

平野:へえ。

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西谷:それが地下出版されたんですね。それとおなじような治療プロセスのなかで、ニーチェに触発されて書いたのが「太陽肛門」です。ニーチェは、太陽は与えて、見返りを求めない豊穣さ、限りなさ、それが生の力だと書いた。

平野:やっぱり太陽はアポロン的になるんですね。美しくて、良きものに。

西谷:でもバタイユはそうじゃないと考えた。もし美しく良きものが生の力なら、そこには最も醜悪なものもくっついているっていう意識があって。「あのマントヒヒを見よ。あのマントヒヒの尻を見よ。ベスビオス火山のように肛門がこんなに突き出ている、あれこそが太陽だ」って言うんですね。

平野:え? どういう意味ですか?

西谷:太陽は赤々と美しく輝いている。そして物質の力が形を破って噴出する。でもそれはマントヒヒの尻だ、肛門だって言うんです。太陽こそが諸物の原理だ、みたいな感じで、太陽は美しい、燦々としていると思っていてはいけないと。力の噴出の現実とはそうではなくて、まさしくあのマントヒヒの肛門、ベスビオス火山のように汚物が噴き出る。それこそが太陽なんだと。

平野:そうなのかなあ。

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西谷:いや、どうしてだって言われても困るんだけど。バタイユがそう書いただけだから……(笑)。

平野:汚物にまみれて醜悪なものを噴出する。そういうものこそ芸術っていうことなのかなあ。

西谷:太陽は物質を創造するように煮えたぎっている。あれは我々にとっての恵みだけれど、溶岩以上の噴出だとしたら、我々の身近なところでのそのイメージは、マントヒヒの肛門ではないか。物質世界の「美」とはそういうものだっていう…。

平野:映画の収録で西谷さんが「太陽肛門」の話をされているのを間近に聞いて、そのときは「あ、これは太郎の話だ」と思ったんです。太郎を理解するうえで大切なポイントだと。でも、いまの話を聞いていると、なんだかわからなくなってきたなあ(笑)。

西谷:(笑)。ブルトンも言ってますけど、「美は痙攣的である」。

平野:太郎みたいだな。太郎も「なんだこれは!」っていうのが芸術だって言っていましたからね。

西谷:存在を揺さぶられるようなもの。醜くても、それが芸術、表現だと。

平野:太郎は、キレイと美しいは正反対だって言ってます。「あら、キレイね」っていうのは、どうでもいいと言っているのとおなじだと。八の字を見ると富士山をイメージするように、「これはキレイなもの」と刷り込まれたものに合致すると、安心して「これはキレイだ」と思うだけで、要するに価値基準に合致するか否かを判定しているだけ。『今日の芸術』に、「「ゴッホは美しい。しかし、きれいではありません。ピカソは美しい。しかし、けっしてきれいではないのです」と書いてます。いまの話はそれに近いのかなと。

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西谷:バタイユがつくった『ドキュマン』という雑誌があるんだけど、写真が当時、アートの領域に入ってきていて、そこでクローズアップの意味に目をつけるんですね。花びらを取っちゃった花の写真を、「これこそが花の美しさの実相だ」っていうわけです。あとは足の親指。人間は空に向かって直立して「知性的存在」とか言っているけれど、その人間を踏ん張らせて立たせているのは、泥のなかにガシッと食い込んで、つかんでいる足の親指だって言うんです。それが精神を支える物質性の露呈なんだと。

平野:なるほど。

西谷:写真の芸術性の端的な表れです。そういうイメージの衝撃。「太陽肛門」っていうテクストは、一般的な豊かさ、一般的な美しさっていうものの足元を完全に崩すために、物質世界の原理を自分が書くとこうなるんだ、みたいな感じで書いたんだと思います。

平野:空に輝く太陽を見て、これは美しいと思っているようでは、世界破滅に導いた、これまでの価値観から出られないじゃないかっていうことですね?

西谷:そう、そういうことです。真冬の雪原に輝く太陽、あるいは中天に輝く太陽。それよりも自分の輪郭を蕩けさせながら落ちていく残りの太陽。それこそが太陽の実相だっていうんですよ。生きているものはね、若々しく輝く外観がいいわけではなく、まさに腐りつつある瞬間、それが生きることの実相なんだと。

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平野:そうか。生きてなければ腐らないですからね。腐るっていうことは生きている証なんだ。

西谷:腐るっていうことが、生きているってことを浮かび上がらせるんです。

平野:それまでの芸術は腐るという生の本質を見ていなかった。

西谷:避けていたんです。

平野:あ、そうか。生を描くのが芸術であるはずなのに、それをやってこなかったわけだ。

西谷:そういうことだと思います。その感覚がなかったら、生きものを表現できないじゃないかと。生きているっていうことの美しさって何なんだ。そんなのぜんぶごまかしじゃないかって。

平野:上っ面だけを見ないで本質を見ろっていうことですね。いやあ、おもしろかった。きょうはほんとうにありがとうございました! つづきをまた聞かせてください!



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西谷修

1950年生まれ。
東京外語大学名誉教授。
著書に『「西谷修 著書に『アメリカ 異形の制度空間 (講談社)』、
『夜の鼓動にふれる:戦争論講義』(筑摩書房)など。