岡本太郎はパリでの⽣活についていくつか随筆を残していますが、実際にどんな⾵景の中、感性を磨いていったのでしょうか。
岡本太郎のパリでの軌跡を辿りつつ、現在のパリの芸術や⽂化に触れよう!ということでパリに⾏ってきました。
その前に、まずは⽇本で下調べ。
1930年代のパリがどんなだったかというと、芸術家にとって憧れの街。
世界中から多くの芸術家集まり、切磋琢磨して同志たちとギャラリーを開いたり、啓蒙活動を盛んに⾏っていました。
ウッディ・アレンの映画「ミッドナイト・イン・パリ」の舞台といいましょうか。
あの映画は1920年代のパリにタイムスリップしてしまう話だから、岡本太郎がいた時期と少しずれているけども、まぁ雰囲気的には間違っていないはずです。
随筆に残るわずかな情報を頼りに、Google map で通り名を検索してもなかなかヒットせず…
例えば岡本太郎が抽象画に⽬覚めるきっかけとなった、ピカソの「⽔差しと果物鉢」を初めて観た、ラ・ボエッシー街のローザン・ベール画廊を調べてみるも、該当するような画廊街が出てこないのです。
調べ進めると、Paul Rosenberg というユダヤ系フランス⼈が1910年にパリの 21 Rue La Boetie にオープンした画廊のことでした。
まさかの発⾳の問題…。
(ポール・ローゼンバーグで検索すると、エミネムのマネージャーの記事が⼤量に出てくるという…Lose YourSelf)
Paul Rosenberg さんは美術に詳しい⽅にとっては有名な美術商の⽅みたいで、ご存命のお孫さんは世界的な資産家らしい。
Rosenberg さんは当時、ピカソやマチスなどの作品を所有しており、若き⽇の岡本太郎は彼の画廊を訪れて運命の出会いを果たしたのです。
お⽬が⾼い!
ということで、現在の 21 Rue La Boetie を調べてみると、
じゃ〜ん。
ピッツァリアになっていました・・・。
ストリートビューって便利ですね〜!!
(せっかく⾏ってもピッツァリアなので、こちらはリストから除外)
こんな感じでいくつかゆかりのある場所を調べ、いざパリへ!
7⽉のパリはとっても過ごしやすいと聞いていたのですが・・・・・・暑い!!!
ついた瞬間から30度越えという、歩き回るにはちょっとしんどい天候でした。
電⾞に揺られること約1時間、ホテルのある Saint-Michel Notre-Dame 駅に到着。
その名の通りノートルダム⼤聖堂の近くで、パリ市内へのアクセスが⽐較的良い場所です。
地下鉄の駅を出ると迎えてくれるパリの街並み。
近年話題になっている「⻩⾊いベスト」と呼ばれるデモや、ノートルダム⼤聖堂の⽕災など、なにかと話題の多いパリですが、やはり歴史のある街並みは恍惚とさせてくれます。
緑も鮮やかで、多くの芸術家が憧れた街と⾔われるのも納得です。
そんな有りふれた感想を抱きながらホテルまでぶらぶらと。
このあたり、とっても映画館が多い!
シネコンではなく、⽇本でいう単館のような⼩規模の映画館だけど、カンヌ映画祭後ということもあって、観たいと思っている映画のポスターがちらほら。
フランスで cinema の看板を⾒るとなんか情緒はあります。
<パリ⼤学周辺 カルチェ・ラタンカルチェ・ラタン>
ホテルから徒歩圏内に、パリ⼤学のキャンパスがいくつかありました。
岡本太郎は1930年にパリに到着して、ロンドンに旅⽴つ両親を⾒送った後、この近くで下宿していたと書き残しています。
下宿先は、「パンテオンやサンテチェンス・デュモン教会、サクレクール寺院のドームがそびえ⽴つ丘の下の深まったところ」となっていますが、これだけでは当然住所は特定できずでして…とりあえず歩いてみることに。
1932年頃、すっかりフランス語を習得した岡本太郎は、パリ⼤学 ソルボンヌの哲学科でヴィクトール・バッシュの「ヘーゲル美学」の講座を受けます。
下宿を離れた後も、岡本太郎もおそらくこの辺を歩いていたのは間違いないのです。
ここでパトリック・ワルドベルグやジャン・アトランなど同志との出会いがあったのでしょう。
あまり⽣徒らしき⼈には出会えず…。
⾒ての通り、とても閉鎖的なキャンパス。
しれーっと侵⼊しようかと思っていましたが、この分厚い鉄格⼦の⾨をナチュラルに開ける勇気はなく、外から眺めることしかできませんでした。
(※事前にガイドをつければ中にも⼊れるみたいです)
多分、歴史が書いてあるのかな?読めません。
「パリで岡本太郎は②」につづきます。
Taro Okamoto in Paris ①
パリで岡本太郎は①
:: March 9, 2020
