五十嵐太郎対談①「建築のはじまり」

第11回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術監督をつとめた建築史家・建築批評家の五十嵐太郎さんとの対談です。
第1回目は「日本建築の歴史」。

②「多少の技術差はあったけれども、様式建築に比べれば背中が見えるくらいの距離だった。」
③「建築とは固くて、動かなくて、変化しないもの、という常識を反転させるビジョンです。」
④「この10年でニューヨークはどんどん新しい名所をつくっていて………。おなじ10年で東京はなにをやっているんだろうって思いますね。」
⑤「建築とライブは似たようなものなので、そこに建築の力があるはずなんです。」
⑥「つくるものは思いっきり未来的なものをつくって欲しいけど、そのためにもぜひ歴史の視点をもって欲しい。」

「外からの大きなインパクトを受けて変わっていくことを何度も繰り返してきたわけですね。」

平野::今日は建築史家で建築批評家の東北大学教授・五十嵐太郎さんにお越しいただきました。五十嵐さんとはかれこれ20年以上のつきあいで、ぼくにとって「建築といえばこの人」という存在。コンペの審査委員長をお願いしたり、ぼくの本に寄稿してもらったり……。シンポジウムなんかでもよく一緒になる。今日はふたりが共通して興味をもっている万博について主に聞いていこうと思っています。よろしくお願いします。

五十嵐:こちらこそ、よろしくお願いします!

平野::万博って、19世紀にはじまったときから建築家や建築技術のショーケースだったし、その後には“建築オリンピック”みたいなことになる。

五十嵐:はい。

平野::以前、ぼくが『大阪万博―20世紀が夢見た21世紀』(小学館)という本をつくったとき、寄稿してもらったでしょ?

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五十嵐:「大阪万博の建築群〜モダニズムからポストモダンへ」というテキストですね。

平野::そこに「明治以降、日本は西洋の建築を学習し、その吸収と普及に努めていたが、気がついたら追い越していたのが1960年代である」と。さらっと書いてあるけど、これって、もしかしたら日本の建築にとって有史以来最大の出来事なのかもしれない。それくらい画期的なことだと思うんですよ。そこで、まずは日本の建築がどのようなプロセスで発展してきて、どういう経緯でそうなったのか、といったあたりから教えてもらえます? そんなの一言じゃ言えねぇよって話だとは思うけど。

五十嵐:まず日本の建築は—文化もそうですけど—外からの大きなインパクトを受けて変わっていくことを何度も繰り返してきたわけですね。たとえば、近代以前だったら、中国や朝鮮半島から仏教が入ってきたとき。思想や作法、仏教美術とともに、お寺、寺院建築の技術が入ってくる。

平野::うん。

五十嵐:それって、じつはたいへんなことで、当時の日本人にとって五重塔はとんでもない高層建築だった。

平野::ああ、そうだよね。ほとんど平屋しかないような世界にとつぜんあんな建造物が立ち上がったわけだから、びっくりしただろうな。

五十嵐:つまりそれって、最新のテクノロジーだったわけですね。中世の鎌倉時代に禅宗が入ったり、東大寺の再建をしたときも―

平野::大仏殿?

五十嵐:そう。奈良の東大寺再建では、重源というお坊さんが中国最新の合理的な構法を取り入れたわけですが、それって大工が拒否反応を起こすくらい、当時としては画期的なシステムだった。その直前の平安時代では、外からもたらさせたショックに対し、それを洗練させ、穏やかに和様化して、日本に馴染ませる、ということをやっていたからです。

平野::なるほど。平安時代までとは外来文化の受け入れ方、つきあい方が変わったわけだ。鎌倉時代の大仏がその典型なんですね。

五十嵐:でも江戸時代になると、鎖国して外からの文化の入り方をある程度絞っちゃう。そこでまた独特に日本的な洗練を進めていく、という方法になるんです。

平野::日本人なりの消化の仕方を考えるわけだ。

五十嵐:その後、明治になると、今度は文明開化によって、新しく西洋の文化・技術が入ってきます。

平野::19世紀後半ですね。

五十嵐:当時の西洋は鉄やガラスの技術を発展させていましたが、意匠的にはまだモダニズムに到達していなくて、まだヨーロッパやアメリカの建築はいわゆる歴史主義でした。中世後期はゴシック様式、近世以降はルネッサンス様式、バロック様式…といったように時代ごとに様式があったのですが、歴史主義の時代はその最終局面でした。

平野::なるほど。

五十嵐:19世紀になると、これらの様式が飽和し、百花繚乱になるんです。たとえば、オペラ座をつくるときには、ドラマティックな空間ならバロック様式だ、ということで「ネオ・バロックで行こう」という話になる。

平野::おもしろいな。

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五十嵐:ゴシック・リバイバルもそう。イギリスの国会が焼けたあと、再建するときには、イギリス的なものということからゴシック様式を選ぶわけです。「○○様式」がカタログ化され、TPOに合わせて、建築家が選ぶようになった。

平野::日本はそのタイミングで開国したわけだ。

五十嵐:日本は木造の文化圏ですから、まずはそれまでやったことのない西洋の様式建築を学習するところから明治時代がはじまるんです。

平野::日本人は真面目だから、西洋建築を驚くべきスピードで吸収したんだろうね。

五十嵐:列強諸国と対等な立場に立つためには、西洋に比肩し得る建築をつくる必要があったので、辰野金吾、片山東熊といった東京大学の前身、東京帝国大学で学んだ人たちがイギリスやフランスなどの欧米に留学や視察し、必死になって学んだんです。

平野::なるほど。

五十嵐:一方で、地方には、大工の棟梁たちが見よう見まねでつくった“西洋風”の建築も出てくる。擬似洋風ですね。

平野::組積造建築をがんばって木造でコピーした。まるで工法がちがうから、さすがに完コピは無理だけど、そのズレがいい味を出していて、ぼくはけっこう好きなんです。で、20世紀になるとモダニズムが出てくるわけですね。

五十嵐:モダニズムの時代になると、状況が大きく変わります。ヨーロッパはギリシア以来、二千年以上ずっと古典主義をやってきたわけで、日本が10年や20年勉強したところで簡単に追いつけないし、そもそも建築材料や構法がぜんぜんちがう。ところがモダニズムは20世紀初頭にヨーロッパでもはじまったばかりなのでハンデがほとんどない。そのうえ、鉄やガラス、コンクリートは世界共通で使える材料だから、遅れが少なかった。

平野::ああ、なるほど。日本はヨーロッパやアメリカを追いかける形ではあったけれど、離された距離は様式建築に比べれば格段に近かったわけだ。

五十嵐:じっさい日本でも、戦前にはすでに優れたモダニズム建築が出はじめます。それこそ、この旧岡本邸(岡本太郎記念館)を設計した坂倉準三が1937年のパリ万博日本館で建築のグランプリを獲ったりね。ヨーロッパと比べても引けを取らないものをつくれる人が出てきたんですね。

平野::ただ、当時の日本でモダニズム建築って需要はあったのかな?

五十嵐:まだ、あまり多くはなかった。くわえて1930年代には、そうした動きへのバックラッシュ(揺り戻し)というのかな、ナショナリズムの台頭を背景に日本らしさを強調する帝冠様式が登場してきた。その後、戦争に突入したために、本格的にモダニズム建築をやるチャンスがなくなってしまう。戦後になってようやくその機会に恵まれるようになったんですね。

平野::そこに颯爽と丹下健三が登場するわけだ。タイミングよく、戦後の復興と、国民的な建築を担当するポジションが彼を待っていた。



次回は「モダニズムと日本趣味」。

②「多少の技術差はあったけれども、様式建築に比べれば背中が見えるくらいの距離だった。」

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五十嵐太郎

建築史・建築批評家/東北大大学院教授
東京大学工学部建築学科卒業、東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。
ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2008日本館のコミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術時監督のほか、「インポッシブル・アーキテクチャー」展、「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」、「戦後日本住宅伝説」展、「3.11以後の建築」展などの監修をつとめる。
著作に『現代日本建築家列伝』、『モダニズム崩壊後の建築』、『日本建築入門』、『現代建築に関する16章』、『被災地を歩きながら考えたこと』など。