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五十嵐太郎対談②「建築のはじまり」

第11回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術監督をつとめた建築史家・建築批評家の五十嵐太郎さんとの対談です。
第2回目は「モダニズムと日本趣味」。

〈前回までは〉
①「外からの大きなインパクトを受けて変わっていくことを何度も繰り返してきたわけですね。」

「多少の技術差はあったけれども、様式建築に比べれば背中が見えるくらいの距離だった。」

平野:話を整理すると――ヨーロッパは二千年の間に建築様式を次々と生み出し、洗練させてきた。しかし19世紀になると、新たな様式の開発ではなく、過去の様式をどうやってうまく使っていくか、という時代になった。

五十嵐:そのとおりです。

平野:いっぽう日本はずっと木造建築をやってきて、せいぜい中国から渡来した様式があったくらいで、建築文化のうえでは鎖国状態に近かった。ところが明治になって開国し、西洋の建築様式が入ってきて……

五十嵐:それに憧れ、おなじようなものをつくってみたいと思ったけれど、日本の建築は石やレンガの材料を使った経験がなかったし、様式についても体系的な情報がなかった。

平野:真似ごとくらいはできたけれど、追いつくのはハナから無理だった。たとえて言うなら、日本がマラソンを走りはじめたとき、ヨーロッパはすでに30キロ地点にいて追いつきようがなかった。

五十嵐:だけどモダニズム建築は鉄、ガラス、コンクリートが材料だから、多少の技術差はあったけれども、様式建築に比べれば背中が見えるくらいの距離だった。

平野:だから日本は必死になって勉強して追いつこうとした。しかし、反動的な和風建築バンザイみたいな風潮が出てきたり、戦争になったりして、追いつく機会が失われたのが戦前の建築状況だった。

五十嵐:そうですね。足踏み状態がつづいたんです。

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平野:話が逸れるかもしれないけど、太郎が太陽の塔を説明するとき、よく「日本文化の基準はふたつしかない。西洋風のモダニズムと、その裏返しとしての“日本調”だ」と言っていたんです。西洋文明に憧れるいっぽうで、それだけだと文化的な隷属状態になっちゃうから、なにか対抗する軸が必要だった。そこで目をつけたのがワビサビだった。西洋の美意識とは対極だから、対抗軸としてうってつけだったんだ、と。

五十嵐:一方にモダニズム、一方にワビサビ……なるほど。

平野:けっきょくは、ともに西洋文明へのコンプレックスの産物であって、コインの裏表みたいなもの。それをともに打ちこわさない限り、ほんとうの日本文化はひらけない。だから太陽の塔をつくったのだ。太郎はそう言っているんです。

五十嵐:太郎さんらしいな。

平野:この話をしたのは、モダニズムの時代になったときに、“日本調”への回帰が台頭した裏には、おなじように西洋に隷属するのはイヤだ、という意識が働いたのかな、と思って。

五十嵐:30年代のナショナリズムのなかで和風建築バンザイ的な風潮が起こったわけですけど、じっさいたとえば上野の国立博物館のコンペ要綱には「日本趣味を基調とした東洋式」と書いてある。

平野:へえ、そこまで。

五十嵐:ル・コルビュジエの弟子として働いていた前川國男なんかは、パリから戻ったばかりで参加したこのコンペに、落選覚悟で完全なるモダニズム建築を提出し、堂々と負ける。そんな時代だったんです。

平野:おお、カッコいい!(笑)

五十嵐:当時のコンペ要綱には「日本」とか「東洋」とかがよく書かれていたんです。その後、日独伊で三国同盟を結んだでしょ? 日本がドイツやイタリアとちがったのは、ヒトラーやムッソリーニのように政治家が「建築はこうあるべき」という明快な意志をもっていなかったこと。

平野:ヒトラーは建築家になりたかったくらいだし、ムッソリーニも建築が大好きだものね。日本の政治家は建築にあまり興味がなかったのかな?

五十嵐:さっきの日本趣味にしても、どちらかといえば忖度ですよ。当時はナショナリズムが盛りあがっていたので、政治家に命令されたわけじゃないけど、要綱をつくる側が――

平野:ああ、なるほど。てことは、思いっきりナショナリズムを発露させたような建築も、政治的にそうさせられたというより、むしろ建築サイドから自発的に出てきた、って感じなんですね。

五十嵐:たとえば、丹下健三のデビュー作品として有名な「大東亜建設記念営造計画」だって、実施コンペではなく、建築学会が企画したアイデア・コンペですからね。

平野:東京から富士山に向かって「大東亜道路」と「大東亜鉄道」を一直線に通し、富士山麓を「忠霊神域」にする、という前代未聞の壮大なプランですね。

五十嵐:そうです。このコンペは、日本建築界のボス的存在であり、丹下さんの師匠筋でもあった東大教授・岸田日出刀が「若手がデザインを発表する機会がないので、それをアイデアコンペの形で見せられないか」とつくったもの。政治家に「やれ!」と言われてやったわけではなく、どちらかといえば建築学会が「時代はいまこういう雰囲気だから、こういうものをやればウケて、デザインの力を示せるんじゃないか」とはじめたものだった。

平野:戦前は、モダニズム建築を追求する一方で、忖度する気分もあった。そういう中で、あえてモダニズム案を出して落選する建築家も出てくるなど、ある種混沌とした時代だった。それが戦争でリセットされた。そういうことですね?

五十嵐:そうです。

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平野:ここからいよいよ大阪万博の話になるわけだけど、大阪万博は1970年だから、戦後25年しか経っていません。その間に日本の建築が急激に進んでいったわけでしょう? 「気がついたら追い越していた」というべきところまで。なんでそんなことが可能だったんだろう?

五十嵐:まず戦争で多くの建物が破壊されたので、単純に大量の建築をつくる必要があった。また戦後の「持ち家政策」もあいまって、若い建築家を育てる機会になったわけです。それと、あまり言われていないけど、万博に関わった世代よりも少し上の人たちの多くが戦争で亡くなった、ということもあるでしょう。

平野:だから若い世代に多くのチャンスが巡ってきたわけですね。

五十嵐:そういったいくつかの要因が重なって、若い建築家が実作の機会に恵まれた。これを見てください。

平野:なんですか、これ?

五十嵐:大阪万博で「エキスポタワー」を担当した菊竹清訓が設計した「都城市民会館」です。

平野:ヘンな建物だなあ。

五十嵐:笑っちゃうような怪獣建築だけど、これの保存運動が10年前くらいにあって。こういう建築が60年代にさかんに建てられていたわけです。

平野:あ、これは1966年の建物だ。菊竹さんは1928年生まれだから、30代半ばの作品ですね。

五十嵐:当時、保存運動に接して、この建物を残す意義はどこにあるんだろう? と考えたわけです。60年代に彼のようなメタボリズム建築家が実現したデザインは、日本が世界と並んだ、ありは追い越したタイミングの作品だと思ったんですよ。だから日本にとって、この建物は重要なんだと。



次回は「メタボリズム」。

③「建築とは固くて、動かなくて、変化しないもの、という常識を反転させるビジョンです。」

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五十嵐太郎

建築史・建築批評家/東北大大学院教授
東京大学工学部建築学科卒業、東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。
ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2008日本館のコミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術時監督のほか、「インポッシブル・アーキテクチャー」展、「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」、「戦後日本住宅伝説」展、「3.11以後の建築」展などの監修をつとめる。
著作に『現代日本建築家列伝』、『モダニズム崩壊後の建築』、『日本建築入門』、『現代建築に関する16章』、『被災地を歩きながら考えたこと』など。

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