未分類

五十嵐太郎対談③「建築のはじまり」

第11回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術監督をつとめた建築史家・建築批評家の五十嵐太郎さんとの対談です。
第3回目は「メタボリズム」。

〈前回までは〉
①「外からの大きなインパクトを受けて変わっていくことを何度も繰り返してきたわけですね。」
②「多少の技術差はあったけれども、様式建築に比べれば背中が見えるくらいの距離だった。」

「建築とは固くて、動かなくて、変化しないもの、という常識を反転させるビジョンです。」

平野:いま話に出た菊竹さんの「都城市民会館」は1966年の竣工だから、大阪万博の準備が本格的にはじまるほんの少し前。ちょうどその頃に、日本では30代の若い建築家に前衛的な建物をじっさいに建てさせていたわけですね。考えてみたら、これはすごいことだな。

五十嵐:ヨーロッパでは、すぐに作れないけど、一度建てるとメンテナンスしながら、建築を大事に使い続けようとするでしょう? とくに旧市街地では景観を守るためもあって、建物のスクラップ&ビルドは簡単にはできない。だから、イギリスやフランスなどの建築家には新築のチャンスがそこまでまわってこないんですね。60年代の前衛でいえば、「アーキグラム」や「スーパースタジオ」のようなアンビルド 系(=実際に建てられることを想定しない非現実的な構想案を提案する建築家グループ)のほうが多かったくらいで。

平野:この時代、ヨーロッパの若い建築家たちには実作の機会がほとんどなかったわけだ。

五十嵐:ところが、1970年の大阪万博では大きな仕事がことごとく30代の若手建築家にまわり、多くの斬新な建築が出現したわけです。

平野:いくつかの要因が重なって、30代の建築家にチャンスが巡ってきた、というのはそのとおりだと思います。ただね、彼らが建築を学んでいた時点では、まだ西洋建築のフォロワーだったわけでしょう? それなのに、60年代半ばになると、とつぜん世界をも凌駕するようなアイデアやアクションが出てきた。いったいそこにはなにがあったんだろう?

五十嵐:ひとつは東大の丹下健三研究室の存在が大きかったと思います。それと日本の建築教育の仕組みも関係しているような気がしますね。狙ってやったわけじゃないと思うけど、日本の場合、建築をデザインする人と構造をつくる人が喧嘩しない。じっさいおなじ釜の飯を食っていますしね。

平野:たしかに、日本の大学では、建築学科に入った後に、意匠系に進むか構造系に進むかを選択するわけで、言ってみればたまたま選んだ研究室がちがった、っていうだけですもんね。

P1950315
五十嵐:欧米だと、デザインとエンジニアリングは最初からちがう世界の住人であって、教育方法もぜんぜんちがうんです。ところが日本の場合は、西洋建築が入ってきたのが富国強兵の時代だったので、建築はエンジニアリングのなかにがある。建築科って工学部にありますよね? だから、いま話があったように、四年生で研究室が分かれるまで一緒に勉強して、さらにまた社会に出ても一緒に仕事をしてというふうに、デザインとエンジニアリングのコラボレーションがきわめてスムーズで、良好な関係にある。前衛的な意匠と大胆な構造が融合したデザインが登場しやすい。

平野:ああ、なるほど。

五十嵐:それと、メタボリズム界隈の人はだいたい丹下健三研究室にいたわけですけど……系譜がはっきりとつながっている。これって世界でも稀なんですよ。

平野:系譜?

五十嵐:師匠はこの人で、弟子がこの人ってつなげていくと、何代にもわたって系譜図が書けるでしょ? じっさいぼくは日本の建築家の系譜図を自分の本に掲載したことがあるですけどね。

平野:そうか。丹下健三から磯崎新……

五十嵐:磯崎アトリエから青木淳や六角鬼丈、青木事務所から乾久美子や永山祐子のように、師弟関係があって、しかもちゃんと有名な建築家としてつづいている。でもこれはなぜか、海外ではあまりないんです。

平野:つまり研究室制度や事務所の師弟関係のメカニズムが、若い才能が伸びていくためのバックアップ機能を果たしていたと。

五十嵐:そして、たとえば丹下研究室による有名な「東京計画1960」でいえば、交通システムは黒川紀章、オフィスは磯崎新といったように割り振りされて、それぞれの個性を統合するような形でプロジェクトが編成されていたのも大きいですね。

平野:戦後日本の建築が急にステップアップしたベースにあるのは、丹下健三研究室の存在がある。丹下研には日本の若い才能が集まり、切磋琢磨していた。丹下は彼らに巨大プロジェクトの模擬体験や、ときには実作の仕事を与えた。それらをとおして、意匠や構造をはじめあらゆるジャンルの人材が一体となって、新たな発想のベースにしたプロジェクトを進め、かつそれに単なる夢物語ではないリアリティを与えていった。最初から“アンビルド”と諦めるのではなく、実現させることを前提にした理念や思想を研ぎ澄ませていった。

五十嵐:そう言えると思います。

平野: 60年代に彼らが唱えた「メタボリズム」という建築思想は、建築史上、日本が一度だけ世界をリードした瞬間だったと思うんです。その一派は丹下研と大きくオーバーラップしていて、大阪万博の建築の世界観をつくるのに決定的な役割を果たしたわけですね。

五十嵐:はい。

P1950433
平野:ところで、肝心の「メタボリズム」を、PLAYTAROを見てくれている若い人たちにどうやって説明しましょうか?(笑)

五十嵐:そうか……(笑)。「メタボリズム」は、生物学の新陳代謝から来ている言葉なので、「取り替え」かな? 古い部分を新しく取り替えるイメージです。一言でいえば、更新可能な建築。

平野:それは当時の日本の発明? それともそういった考え方自体は海外にもあった?

五十嵐:正確にいえば、建築を1度完成したら不変と考えるのではなく、ダイナミックに変化していくものととらえる発想は、同世代の海外の建築家も共有していました。建築とは固くて、動かなくて、変化しないもの、という常識を反転させるビジョンです。

平野:それにしても、なぜ日本のメタボリズムだけに光が当たったんだろう?

五十嵐:うーん、やっぱり「メタボリズム」っていう言葉がキャッチーだったことが大きいんじゃないかな。もちろん、実作も重要でした。

平野:たしかにそれは大きかっただろうな。日本だけが考えていたわけじゃなかったにもかかわらず、インパクトのある言葉で新しい概念をくくってみせたわけだ。

五十嵐:しかもタイミングがよかったんですよ。CIAM(近代建築国際会議)が崩壊した直後に開かれた「東京デザイン会議1960」で打ち出したんです。

平野:CIAMって、どういうものだったんです?

五十嵐:20世紀のモダニズム建築に大きな足跡を残したグロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエらが参加していたんですけど、モダニズムが出てすぐの1920年代に彼らは国際コンペでだいたい負けていたんですね。それをまずいと思って国際的な組織、CIAMをつくったんですね。30年代、CIAMはモダニズムの指針を示す役割を果たしていた。たとえば「近代建築の次のテーマは最小限化だ」みたいなことです。

平野:なるほど。

五十嵐:そのCIAMが崩壊したことで、世界の建築思潮はどこに向かうんだろうとみなが思っていたんです。ちょうどそのタイミングで「東京デザイン会議1960」があって、そこを狙うような形でメタボリズムが出てきた。タイミングもお膳立てもちょうどよかったわけで、それが大きかったんじゃないかと思いますね。



次回は「未来の建築」。

④「この10年でニューヨークはどんどん新しい名所をつくっていて………。おなじ10年で東京はなにをやっているんだろうって思いますね。」

P1950083
五十嵐太郎

建築史・建築批評家/東北大大学院教授
東京大学工学部建築学科卒業、東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。
ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2008日本館のコミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術時監督のほか、「インポッシブル・アーキテクチャー」展、「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」、「戦後日本住宅伝説」展、「3.11以後の建築」展などの監修をつとめる。
著作に『現代日本建築家列伝』、『モダニズム崩壊後の建築』、『日本建築入門』、『現代建築に関する16章』、『被災地を歩きながら考えたこと』など。