
『PLAY TARO』というサイト名は「太郎と遊ぶ、太郎で遊ぶ」という意味でつけられました。
でも「岡本太郎と遊ぶ」って、いったいどういうことでしょう?
そこですこしでも太郎の思う「遊び」が理解できればと思い、
過去の太郎発言から「遊ぶ」「遊び」というキーワードを含んだ言葉を探し、
いくつかピックアップしてみました。
| 「お遊び」では駄目なのだ。 全生命、全存在を賭けて、真剣に、猛烈に遊ぶのでなければ、生命は燃えあがらない。 いのちがけの「あそび」と、甘えた「お遊び」とは、まったく違うのである。出典 『自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか(青春文庫)』 |
「遊び」ってもっとゆるいものだと思ってました。
「遊ぶ」のにも「全生命」を賭けなければダメなんですね。
中途半端な「遊び」は「遊び」じゃないんです。
(だったらそれは何なのか聞いてみたかった気もします)
何をするにも、生命を燃え上がらせ続けた太郎ならではの言葉ですね。
| 空間とは生活だと私は言った。 同時に、生活とは遊びである。 遊びという無責任だったり、いい加減だと考えがちだが、それは間違いだ。 むしろ、言葉をかえて言うなら、徹底的な自由とでも言うべきだろう。 とかく一般の人々は遊ぶことが苦手のようだ。 ものごとを自分一人で自由に考えることができない。 型にはまってしまう。出典 『ドキドキしちゃう―岡本太郎の“書” (小学館)』 |
「生活」は「遊び」でしかも「徹底的な自由」ですって!
もしかしたら私は「生活」していないのかも・・・
そんなことを考えてしまうほど、
がんじがらめな毎日を送っているような気がします。
まずは「ものごとを自分一人で自由に考える」
むずかしいけど、そこからはじめてみようかな。
| ナチによるゲルニカの無差別爆撃というものがモチーフになっているが、 そういうものへの憤りが、絵を描いているうちに昇華され、 芸術表現による遊びが浮かび出てくる。 もちろんその遊びは言いようのない緊張感だ。 激しい怒りそのものが遊んでいるのだ。 (中略) (ピカソは)怒りながら、瞬間に自分を見返している。 常に見返していなければ本当の芸術家ではない。 自分を失い、我を忘れた狂奔は怒りではない。 芸術ではない。 憤りというのは、今も言ったように、 セッパつまっているようでありながら実は遊んでいるのである。 憤りこそは最高の遊びだ。出典 『美の呪力(新潮文庫)』 |
太郎は(我を忘れずに)怒るってことは「最高の遊び」なんだそうです。
こう考えられると、毎日が、人生が、すべてが「遊び」につながりますね。
こんなふうに自分を見返し(向き合い)人生を真剣に遊んでいられたら、
それはとっても素敵なことに違いありません。
『PLAY TARO』はそんなあなたがリアルタイムで岡本太郎と遊ぶ、
太郎と“ぶっつかる”メディアにしたいと思っています。
(“ぶっつかる”は太郎がよく使っていた言葉です)
さぁ、あなたはどうやって太郎と遊びますか?