
■『日本再発見』抜粋3 「日本文化の風土」より (PP.271-272)
芸術風土記を思い立ち、日本の各地を廻った。
私はこの国に生き、
何とも形容できない複雑にからみあった現実に抵抗しながら生活し、
戦って行くよろこばしさに戦慄する。それはまた当然、憤りとの裏表だ。
純粋でありながら、未熟であり、混乱し、
過去と現在、異質と素地が正しく対決しないまま、
イージーにまぜ合され、のみ込まれて、問題を失っている。
この混乱――私は必ずしもマイナスとは思わない。
むしろこれからの文化の可能性として、それは魅力でさえある。
だが具体的に分析して問題をえぐらない限り、不毛だ。
たしかに今日の日本文化にはグロテスクな面がある。
これほど己自身を侮辱した国民は、
おそらく、かつてなかったのではないかと思えるくらいだ。
現代文化の高度な問題について語れば、必ずパリであり、ニューヨークだ。
でなければソ連、中国。現在の日本はまったくお留守だ。
もしプライドがあるとすると、それは過去の文化遺産、
つまり平安朝文学だったり、奈良の仏像、雪舟の墨絵の類
――教科書に出てくるようなアカデミスムなのだ。
別に知識、確信があるなしにかかわらず、そういうことにされている。
伝統主義か近代主義。情ないもんだ。
そんな気配にふれるにつけ、今日の日本に対する執拗な愛情と憎しみで、
身をひき裂かれるような思いがする。それはほとんど苦痛な生甲斐だ。
私はそういう文化層の破廉恥な気分に対して、
この風土記をたたきつけたいと思った。
現在、自分のプライドをぬきにして、文化も芸術もへったくれもない。
ウンヌンすることだって、おこがましい。
土地土地を廻り、実際にこういう可能性、
問題性があるということをつかみ出し、われわれ自身につきつける。
たとえどんなに惨めであり、未熟であっても、
まずあるがまま捉え、そこから問題を発展させて行くことだ。
いや、未熟だからこそチャンスなのだ。
それは豊かに、ほほ笑ましく問題を投げかけて来ている。
未熟ならば、だからこそ、ほとんどそれを誇っていい。
そういう人間としての誇り、自覚、つまり生甲斐をもって、
逞しく人間が息をし、生活する場所には、どこでも第一級の芸術があり得る。
芸術のセンターは何もパリやニューヨークじゃなく、
世界中あらゆる場所にあるのだ。
秋刀魚や筍じゃあるまいし、
芸術の「本場」なんてグロテスクな言いぐさは、もう無効にしなくちゃならない。
(……)
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いかがでしたでしょうか?
続きが気になった方は、
ぜひ『日本再発見 芸術風土記』をご覧ください!
次回は 『神秘日本』をお届けまします!!
